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スマトラ沖地震・HBSスリランカ・津波被害緊急支援室
HBSスリランカ第二次支援活動レポート

光り輝く島・・・ああスリランカ

妙深寺 高島

○長いながい前置きと背景

1.何故スリランカにこだわったのか

実は私には、長年の間信仰上のモヤモヤが心の中に渦巻いていた。間違いなく2004年12月26日のその日のうちにカンパ【義捐金】を妙深寺にと考え、翌朝銀行に、再度夕方にも銀行に行き、それなりのお金を新しい教務さんにお渡しした。寺報編集直後で、ご住職も風邪のようで会わずじまい。で翌日28日に再度持参となった義捐金には文書を添えることにした。

 義捐金を翌日妙深寺に届ける 12月27日

「スリランカ支援のために」と題するもので、A4一頁。中身は常々世界布教をと寺報には載っている以上、今回のスリランカの被害を見捨てるわけには行かないだろう。手をこまねいているのであれば失望感はぬぐえない。また昨秋の高祖会でのご法門や映像のように、インドまで出かけ初の“開講”を成し遂げたお話は、その発願の深さにおいて感動に値するに十分すぎるほどのものであったからである。

かつて職場のボランティアセンター勤務時代は、阪神・淡路大震災の後方支援、昨秋10月の中越地震の際は、仲間の社会福祉士会にすぐ送金を指示し、またHPにお見舞い文、11月23日には横浜駅西口で街頭カンパを行い、本部に送金したところであった。

だが、インド洋津波に対しては、何かが違った。私にとってはそれなりに多額?の義捐金であり、支援の体制をとるようご住職に依頼したのであった。

 神戸香風寺を単独訪問    12月30日

一方それとは別に、ご住職は、神戸香風寺の福岡お導師と連絡をとられ、第一次はお導師夫妻が情報収集を兼ねて現地に飛ぶことがメールでも報告された。最初は12月31日に出発の情報もあり、ここでと思い、私は単独で神戸の香風寺を尋ねる気持ちも抑えがたく、12月30日新幹線で大阪に向い、友人と会食後、須磨まで足を伸ばした。いつも飛行機で田舎の徳島まで帰るのに、今回は何故か大阪行きの新幹線切符を確保していたのだった。何か運命的といえば大げさだが、ここは行くしかないと決心をしたのであった。

 目からウロコの“個別性” 福祉と同じだ!

学んだことは大きかった。福岡お導師は語る。「日蓮聖人に何故手紙が多いのかー個別を大事になさるからです。信者さんも一人一人なのです」と。社会福祉にいささかでも従事したものにとってこのことばの意味は大きい。「個別性」「一人一人を大事にする」のは援助技法の原点でもあり、思想的な原点なのである。ああそうなのか、と納得した。これからは「自分なりに租借をした上で考えていけばいいんだ」(対機説法とかいうらしい)と。御教歌そのものをそのままではなく、一度自分の中にもどして理解すればいいのだと。まさに目からウロコだった。

そして第一次支援の様子を寒参詣中に妙深寺で聴かせていただき、第二次には是非にと考え、日程の発表もないのに参加希望をメールで申し込んだのであった。

集団性に見える宗教集団のその原点が実は個別性であったのだ。新しい発見に胸がおどった。


2.「天災は忘れた頃にやってくる」のことば

ところで私の入信は1978年10月。中国旅行の安全を担保するためという実に他愛もない動機だった。やがて、お講の席にも恐る恐る出ることになったが、あるとき参詣した私を見て前ご住職が発したことばは「おお、天災は忘れた頃にやってくる!」であった。「えっ?歓迎されてないの」という疑問。傷つかないといえばうそになる。モヤモヤ感の元になったことばである。

 えっ 私は歓迎されていない新入信者?

何故こんなことばを言われなければならないのかと。教化親にも再々申し上げたがどうなるものでもなく、それなりの“お付き合いのような”信仰生活が続いた。フルタイムの仕事であったのでちょうど良かったのかもしれない。いや,信仰といえるほどのものとはとてもいえなかったといっていいだろう。

 平成5年は徹夜のお看経に参加 

それでも平成5年、前ご住職が大怪我をされ、徹夜の天を揺るがす様な連日のお看経にはもちろん参加した。夜参加できるので助かった面もあった。

 <拍子木も折れんばかりに父君の快復祈る若き御講師> は好きな歌。

その頃毎日書いた歌が寺内である方の目に触れ、その後短歌の会に所属することになったこともなつかしい。感動すると歌が自然に出てくる喜びを知ったのはこの経験からだった

一方、その頃娘の結婚のご挨拶で郡山まで行き仲人の家に大きな佛丸のお戒壇を見たときは、東北の地にひとり嫁ぐ娘のありようが始めて納得できるものになっていたのだった。よほど嬉しかったのであろう担当教務の清水泉洋師(現法深寺住職)に新幹線の中から電話をしたほどだった。この御講師はしかし鋭く問題提起をされた方だ。こういう問いかけは嫌いではない。「高島さんは何故,仏立宗に入っているの?」応えに窮し「まあ、私の駆け込み寺のようなものです」と。動機のはっきりしないあいまいな信者としての態度に別の形で問いかけたのだと思う。この宿題も今回解決に向かうことになった。

 『末席を汚しています』もぼちぼち卒業せねばなあ

そして今回である。私も2年前に定年退職し、以前からの役職は続いているものの毎日ではなくなっていた。いつまでも「信者の末席を汚しているものです」ともいい続けるわけには行かないだろう、という気持ちにはなっていたことは事実である。寺報に掲載される体験談や先輩信者のちょっとした機微に触れ、私にも何かできるかもしれないと思うようになっていたのである。ちょうど高齢人口の入り口の誕生日をクリスマスイヴに迎えたこともあり、その他のことも重なって思い切ってものをいう人間になろうとしていたのである(職業生活ではだまっているわけではないのだが)。

 ご住職へのある告白-1月28日のメール

正月の月も終わろうとする1月28日(金)。思い切ってご住職にメールを書くことにした。ご住職のお父様からいただいた言葉「天災は忘れた頃にやってくる」についてである。長年その問題でどうしてなのかと疑問に思ってきたことを伝え書き始めた。するとどうだろう。書いてるうちに疑問が解けてきたのである。「あっ、わかりました」と思わず書いてしまったのである。何故自分がスリランカにこだわり、年金生活の中からそれなりのお金を出そうとするのか、自分でも不可解ともいえる行動の原点が判明したのである。

 解けた天災の話のなぞ

解けてみると、コロンブスの卵である。たしかに天災は忘れた頃にやってくる。しかも突然に襲ってくる。このスリランカのことを予測していたかどうかは別として、「災害のときには、しっかりやってくれよ」とのメッセージであったのだ。私にはそう理解できた。

なんということだろう。解けたこの喜びをなんと表現すればよいのだろう。しかも自然に。解けた話を教化親にすると「27年間の罪障が取れたのよ」という。ちがうなあ、その解釈は。ぴったりとこないのが正直なところだ。では罪障を溜め込んでいた私が悪いのか・・・・。こういう表現でくくってほしくないなあ。ちがうだろう。まあいいや。そんなことにこだわっていても前向きではない。とにかく解けたのだからいいのだ! 個性的な教化親のことはまた別のところで触れよう。こういう私を長年待っていてくれたのだから。でないと私はとっくに退転していただろう。

 前ご住職のご内室に街中で遭遇

そうしたら、今度は翌日午後、前ご住職のご内室と若奥様、ご子息に駅ビル地下で偶然お会いした。こんなことってあるだろうか。昨日解けた話ができたばかりなので、その奥様にお会いできるなんてめったにないこと。これはお許しいただき、前ご住職が引き合わせてくださったように思えてならなかった。おりしも奥様の誕生日という。娘の嫁ぎ先の郡山からおみやげを買ってきたことはいうまでもない。

 寒参詣中の予感いくつもー秋から冬へのソナタ

その前、1月11日は我が家で教区のお講。ヨン様の話など出しながら大笑いしていただく話はできたかなと思う。朝日新聞の投書にからむ話だ。「戦争加害の歴史を乗越え東アジアの連合(AU)ができる可能性」に目からウロコだったが、この在日で初の東大教授のカンサンジュン氏の構想を私なりに、ヨン様主演のドラマでというのが私の「構想(?)」で大いに気に入っているもの。ただ新聞には掲載されなかった。それはどうでもよい。「人に馬鹿にされるような発言をあえてした」というところに意味と価値がある。これは私なりの儀式であったといえる。そして65歳の誕生日を迎えた(稼動人口の64歳の終焉でもある)。こうして12月以降、私をめぐる動きは、いろんな形で活発に動きだした。

 福岡お導師の真価は何か

1月は福岡お導師から本やテープ(第一次支援報告のご法門でむろん妙深寺送付後で毎日聴いた)や写真のほか手紙が送られ、ひそかにもひそかにも感動した。こんなに親切にしていただくなんて人生で初めてだった。個別性を大切にされるとはいえ、ここまでやってくださるのかという思いでもある。大事に考えて下さっていることが嬉しいのだ。(多分、どの信者も同じであろう)いささか大げさな表現をお許しいただくならば、私は人生で初めて“師”に出会ったのだった。これまでの自主自立性を重んじる生き方の私には考えられないことであった。そして思う。師のここまでなさる行動の規範は何かと。それは支援活動中に判明することになる。

スリランカ行きは1月中旬に申し込んだ。寒参詣も珍しく準皆勤状態で、珍しいことである。うきうきするような毎日であったといっても過言ではないだろう。下手な句がある。

 <本年は奇跡の起きそな予感してこころときめく寒の参詣>

 重要研修だが断ろう、スリランカだ!

そのうち、スリランカ行きの日程が示された。3月8日にある研修が重なっていることが判明した。当然試験をクリアしての第三段階の研修なので,いつもの私なら、スリランカ行きをことわったであろう。しかし、今回は迷わなかった。人生の中で再び実施されるものと1回かもしれないものとの選別である。当然スリランカ行きだ。研修はすぐことわった。

英語のレッスンテープとカセットを購入したのもこの頃である。カセットも入信の時以来だ。寺内で、本門仏立宗の英語のテキストを講入したのもこの頃。もちろん読むのは左側頁の日本語(右側頁が英語)である。

こうして、私はスリランカ行き一色に高まって言った。


3.光り輝く島―スリランカへ

スリランカ報告は、すでにメンバーの手で、妙深寺ホームページにも掲載されているので、私は特に印象に残った場面を中心に報告させていただくことにしよう。それにしても妙深寺HPのPacoさんの書き込みとご住職のご法門に感動して“赤裸々に語りし女(ひと)の身の上は今法華経に光り輝く”の歌をお贈りしたのだが(もちろん自作)、スリランカのSRIの意味が同じ“光り輝く”であることを知り、私は正直驚愕した。

(1)お土産の準備

その頃、上野の国立東京博物館で鑑真和上展が開かれており、私も精神保健ボランティアの友人と参加した。パソコンパッドやクリアフアィルが一杯売っている。嬉しくなっていくつも買い求めたが、帰ってから気がついた。有名な“神奈川沖波浪”の版画はなんと大津波に見えるではないか。これはやめる事にした。報告書様式も作らせてもらった。それぐらいしないと申し訳ないとおもったからだ。

もう一つ、佛丸のついたものがいいという。ならば軽くて安くてしるしが入ったもの、というと「ふきん」となる。自費で200枚購入することにし、寺務所から白鳳堂に注文してもらった。これなら自分で持てる。以後このふきんを何処でお渡しするか、そのために持参した娘のリュックサックに詰め込み毎日持ち歩くことになった。あれで結構重いのだった。

というのは、赤い長靴もリュックに入れており、これを毎日持ち歩いていたのである。長靴でないと危険な箇所があり、入れないのではとわざわざ郡山で買ってきたのである。

 若者の肩に映写の七つ道具が

一方、瓜生リーダー等の要請で、使わなくなった仏具がたくさん持ち込まれ、妙深寺の玄関先はその整理と数の点検の作業が続けられた。メンバーの柳沢君の母君も参加された。このことに思いを馳せるご信者さん方の“思い”があふれ、ただ嬉しかった。すごいなあ、妙深寺のご信者はと思うのだった。強力の役は、柳沢君はじめ、修行見習い中の兼子隆二君だ。

しかし、出発の朝になって驚いた。持参物はこれにとどまらずプリンター、DVD映写機など妙深寺旅の七つ道具が“若者の肩と背中と手”にどっしりと乗っていたのである。

(2)大雪の歓送受けて

予報では、大雪になるという。出発前夜も信者リーダーの瓜生園子さんは心配して、成田までの切符をバスから成田エクスプレスに切り替える手続きをし、横浜駅7時集合で出発することになったと連絡をして下さった。貴重な方だ。この後の旅は、なべてこの方の陰の力により進むことになる。なぜなら、大事なお金を管理していたからでもある。

当日は案の定大雪。成田で3時間待たされるが、仲間がいるせいかあまり苦にもならない。結局11時間後にシンガポールに着く。深夜のため何もわからないが、空港内の池のそばで合流した関西組と自己紹介がはじまり、福岡お導師により旅の日程が改めて披露された。まもなくスリランカのコロンボ国際空港に向け出発。3時間ほどの旅である。

空港からホテルまでは45分。コロンボプラザホテル(五つ星)に着く。起床までは約3時間という。アア急いで寝なくっちゃ。成田での厚着はもう脱いだ。

(3)初日はいきなりテレビ局へ

朝8時30分。ホテルのロビーには美人の女性が2名と1歳くらいの赤ちゃん、それとぺレラさん(津波の際、連絡のとれないミランダ女史に代わり連絡役をすべて引き受けてくださった貴重なチョビ鬚の方)が待っていた。打合せが始まる。

マイクロバスがコロンボ市内を走るまもなくテレビ局に着く。例の美人の女性はアナウンサーだった。福岡お導師と横に大阪組の2名のお講師が並び、取材が始まった。お導師はうすものの淡いブルーの式服と袴で臨まれた。ここで英語を始めて聴くことになる。すごいなあ。終了後紅茶のご供養

思いのほか早く終わったので、一度ホテルにもどり昼食の買出しは若い女性4人と男性一人。こうして、ご住職からいただいたお金を無駄にしないよう安く上げる工夫は、瓜生リーダーの真骨頂である。買い物のリーダーは路子さん。英語ができるからだ。パンとチキンの軽食。でも若者たちの何とすがすがしいことか。

(4)教科書の買い付けから一挙にカルタラへ

午後は、かなり大きな教科書会社に行き、翌日の図書館に寄付するための教科書の買いつけである。4階か5階まで狭い階段を上る。ううんいささか熱い。この会社自身も本の贈呈を予定しているらしく、ここでもそうしたことのために義捐金を贈呈した。受け取られた方はインドの無抵抗主義者のガンジーのような白き衣の品がある方でこの国の知的レベルの高さを思わせた。

後は、一気にカルタラに向け出発。やがて海岸線にでる。椰子の木が美しい。実もたくさんなっている。しかし冷房つきのマイクロバスの窓から見えるその風景に、家がない。

あっても壁面のみ立っていたりと津波のすごさが伺われる。踏み切りも通った。列車ごと津波に呑みこまれたのは、スリランカだけだ。もっと南の方で遭遇したのだろうが、線路がなぜか空しい。開通はしているらしくやがて列車にも遭う。ここでの歌はこうだ。

 <ゴール向け列車か人乗せ走り行く あの日列車も南に向うや>

     写真に撮るとただの列車の風景だが,胸が詰まる。あの日2004年12月26日、日曜日。クリスマスの休暇に突然大津波が列車を襲い、しかも丸ごと閉じ込められてあの世にむかうなんて誰が想像しただろうか。私たちがあの列車に乗っていたら・・・・・。私たちの運命のまさに一寸先は闇であることが思われる。しかし、一方で“仏立宗という列車に乗り込んだ”自分たちであることも事実だ。列車にはさまざまな思いが交錯するのだった。

(5)  スリランカ最初のお講,天を揺るがすお看経

カルタラの有力者チョビヒゲのぺレラさんのお宅についた時は、日もとっぷりとくれ、親会場らしき部屋も薄暗かったが、たくさんのご信者さんが待っていてくれた。大阪からのお講師2名が実に手際よくご宝前のセットをなさる。やがてお看経がはじまる。スリランカ入りした始めてのことでもあり、いやがうえにも拍子木に力が入る。ものすごいお看経だった。

 <生き延びしご信者宅に初お講 屋根揺るがして看経あがる>

福岡お導師は、日本語につづき英語で言上。いやみごとだった。成るほど海外布教とはこういう風になさるのか。目を見張る思いだった。

一方で早くふきんをさしあげなくてはとも思い、目で人数を勘定もする。この日50枚を持参。

部屋は、ぺったりとした床で、現地では素足である。熱いからそのほうが気持ちよいだろう。私も靴を脱いだ。終わってとなりの自宅で紅茶やバナナの接待にあづかる。こうした場所では私は必ずトイレを借りる。あまりにお借りしたので,水洗であったかどうかがもはや記憶にない。このうちが山に逃げ、近隣が全員死亡という仏立新聞でも紹介された家である。ここでは床下までの第一次の浸水で変だ、と思った気持ちと行動が生死を分けているのに気づかされる。この地区のリーダーとお見受けしたこの方の“判断の分かれ目”。ここはやはり信心に脱帽しよう。

 <言上は一に日本語 二に英語 開拓導師の歩みの長き>

そういえば、到着直前に車が急停車をし、一瞬ヒヤッとしたことがある。ここで何かあってはご住職に申し訳ない。ところがこの辺ではよくあることらしく、自転車のカバーが少しへこんだ位で何か、現地語でしゃべってハイ!スタートだった。ほっとした。車の運転にはずいぶん肝を冷やすようなことが多かったが、急停車はこのときのみ。考えれば、皆さんこんなにも信心厚き方々に何かあるわけがない。何のための信心かと言いたくなってしまうではないか。私の持論が胸の中でつぶやく。私もそのひとりにはいるだろうか、と少し心配しながらだが・・・。

(6)  お導師にひざまずくひとびとー義捐金贈呈

義捐金贈呈は、この日初日から始まった。先ほどのガンジーさんは別として、個人の方は、皆さん、福岡お導師の前にひざまずき、時にはその“みあし“に触れんばかりにお辞儀をされて受け取られる。義捐金には個人の名前がメモされていたようで、一人ひとりが呼ばれ受け取るのだった。大津波の支援隊はもちろん日本も含め世界のあちこちから成されているとテレビでも報道されているが、時間的差異もあり、当時は生活物資が中心のようであった。2ヶ月以上経過した支援には自立した生活を営む上で、やはりお金が必要なのだ。しかも日本からただ単に送りつけるのみでなく、直接見える形で渡され、人が交流し、信者さんなら、ともにお看経を上げ、生きる道が開けた事を共に喜び合うものでなければならない、と福岡お導師は出発前の12月30日にすでに語っておられる。ひれふす姿は、単に仏教徒であるのみでなく、遠い日本から直接義捐金を持参してお渡しするという形と内容において優れた実践、まさに”菩薩道“であったと思う。感動だった。こんなにも喜ばれる姿が感動でなくてなんであろう。来てよかった!この選択はすごいと自画自賛したくなりそうだった。

 <近隣はなべて津波に呑まれしとう 残りし村人(ひと)らに贈呈始まる

贈呈式には、また誰に差し上げるべきかの調査や選別がよくできていたと思う。現地との交流と信頼関係がなければこれは成立しないだろう。そこにいたる道のりの長さに思いを馳せないわけにはいかなかった。帰りの海岸線はもう暮れていた。

 <この浜に大波押し寄せ家も人も さらいて何処に消えし波の端>

この国、スリランカはシンハラ族が人口の7割を占め、そのほとんどが仏教徒であるという。そのほか、タミル人(2割)などがいるが、彼らはヒンドゥ教徒である。(『地球の歩き方』より)

いったい、あの波は何処に消えてしまったのだろう。

10時過ぎにホテルに帰り、食事、入浴、明日に備える。

(7)二日目は小学校、福祉施設、病院・・浜辺で緊急ご回向

二日目も出発は早い。8時半だ。予定は小刻み、もちろん遠出でスリランカ第二の南部の都市ゴールでのお助行もある。この日の主役は銀行マン氏というべきか。

10時半過ぎ、ある親会場には沢山の方々が待ち受けている。贈呈式は信者ではなさそうであった。身なりから貧しそうな様子が読み取れた。この義捐金はまさに“天なる宝”であったろう。予定表では31軒に贈呈とある。必死なる顔つきがそれを物語る。急ぎ整備したらしい橋のほうに一旦戻り、福祉施設らしい建物のそばを通り海岸に出る。子ども、大人も増えてくる。浜辺は近く、瓦礫というか、家がかつてあったことがかろうじてわかる「崩れた壁」「敷地跡」群が続く。

 <照りつける砂の浜辺に本尊を掲げにわかの回向はじまる>

お導師は突然大きな声で宣誓の如くことばを発せられる。

「ここで、大津波で亡くなった方々のご回向をしましょう!」 壁面を探し、ご本尊が掛けられ、お看経がはじまる。ここでも日本語と英語の言上が始まる。朝から関わってこられた銀行マン氏?が皆さんをまとめる。子どもたちは始めての経験らしい。おもわず私は、子どもたちに左手を出し、右手で打ちつけるような手振りを示す。汗が吹き出る。子どもたちが大いにわが妙深寺青年たちと遊んだ場所でもある。子どもは遊びが欲しいのだ。遊びがないと育たない。人間とはなんという高度な営みをする動物であろうか。“遊び”という名の行動が人を癒し、成長させていくのである。

ある老女は、私の手をしきりに引っ張り、家の跡らしきところへ連れて行く。指差して言うのはこうだ。『マイ、ハウス、マイ、ハウス』と。そして住所メモを握り締め、私に渡すのだった。切ない行為だ。

 <法華経に命を懸けしお導師の 眼(まなこ)と言上揺るぐことなき>

この熱砂の浜辺での緊急ご回向は、今回のスリランカ行きでもっとも感動した場面の一つである。なぜか。私は、鎌倉で辻説法をする教科書の日蓮聖人をイメージしたのだった。迫害続くまだ初めの頃である。その場面、そのときの民のありように応じて回向をなさるその福岡お導師のその姿は日蓮聖人でなければ誰あろう。この方の海外布教にかける発願の深さを思わずにはいられなかった。この現場主義はただ事ではない。こんな現場をかつて経験したことがあるだろうか。頭を垂れるのみである。

その後、少し戻りホテルのレストランで遅い昼食。海岸沿いの高台で1階まで水がきたという。サラダや果物が豊か、白地に藍色のぐるぐる巻きの模様の統一した陶器もなかなかだ。もっともおいしいレストランであった。

昼食後、病院に向う。山あいに入ってはいるが、津波のその日は、1日20人もの患者の手術をなさったというから、大変な修羅場であったと想像した。

(8) 銀行マン氏の入信お講、えっベテランなのに?

この日朝からずうっと、付き添ってくださったのが銀行マン氏。あわいピンクか藤色のようなワイシャツ姿でなかなかおしゃれかつやり手の方のようにお見受けした。病院での冷房機器等の贈呈がおわり、さらに車をはしらせ(コロンボ市内かも)、バナナの木や椰子の木が茂る親会場のように広い家に着く。それがどうやらご自宅らしい。スリランカで初めて入信のお講である。言上者はもちろん福岡お導師。鏡台の横の空間を使い、ご本尊が設置された。家族一同4人くらいの入信であったと思うが、正直驚いた。よくおしゃべりになるし、被災者の調査努力された話など実務もなかなかの方のようであった。伺えば、スリランカ行きの総合コーディネーターの妹のご主人であるとのこと。おまけに浜辺では私に“Can you speak English?”とのたまう。Oh,Noが精一杯,臨界点だ。宿題が残ったが、この方の力は今後多方面に発揮されることであろう。トイレは確か水洗、バナナがおいしかった。

この日は途中、明日のために昼食の予約にあるレストランに立ち寄ったが、お導師自らこうしたことまでなさる姿にも驚かされた。私たちはのんびりとマイクロバスに乗っていればよいのに。

 <海外布教(かいがい)は、一に体力、二にお金,三四がなくて五に英語>

やや揶揄的にお導師は申されるが、何のなんの、法華経をインドに帰すことの夢と発願が第一で今風ならミッションの高い方であり、第二にご自分の役割を人材育成(教育)に賭けられていることから来るものである。そうでないと単に『福岡がやったに過ぎない』のであり、それはもうあまり意味がないのだと、導師はのたまう。すごいなあ。ここに今回の若者中心のスリランカ行きの本旨を深いところで知ることになる。当方、少少遅まきかつ“わたし”が前面に出そうになるがこれだけは肝に銘じよう。だがまあ、何か役に立つこともあろう。ご一緒させていただいたのだから、それだけで”もうけもの“だ。

 <スリランカ時間というべきものありて 食事ご供養交流つづく>

帰りは今日も21時くらいだった。昼食はどこでもいうわけに行かず、予約のため、意外と時間がかかってしまう。よく”スリランカ時間“が語られるようになったのは、この食事時間とご供養の時間が計算になかなか入れられないため、そして交流だと想像した。

(9) 三日目はいよいよミランダ女史宅に

なんと出発は7時半という。カルタラのチョビヒゲ氏の案内で、コロンボ市内の親会場につく。

仏立新聞にも出ていたキリスト教のご主人を亡くした母と娘に会う。自らは生き残り、しかし生計中心者は津波で逝ってしまったという母子である。月曜日の朝とて信者さんはさすがに少ない。福岡お導師がかつてデザインし現地で製作したという黒塗りのお戒壇(奥行きが日本の半分くらいか)が、厳然としてある親会場だ。思わず、『お父上の分まで生きてね!』とこころの中で言わずにはいられなかった。持参していた十二単のパソコン用マウスパッドをその娘に贈る。『将来役に立て手ね』の気持ちをこめて。ここはもう気持ちのみだ。

 <スリランカ美人のミランダ女史笑みて How do you doからもう看経へ>

ここは予定通り早くに出発し、ミランダ女史宅に向う。池や公的ミュウジアムでもありそうな、なんとなく『文教地区』のような場所を抜け、坂を上れば、そこが女史宅だ。入り口を入ってから玄関までに庭園のような緑を潜り抜けていく。何か雰囲気がまるで違う。ここは高級住宅地らしい。

2階が親会場になっていて広い。そこここに花を生けてあるのは手伝いの人がいるからか。ブルーの朝顔が花器にいけてある。早速看経がはじまる。拍子木の使い方も手馴れたものだ。

また、福岡お導師はすでにここを訪れているので勝手知ったる親会場、といった雰囲気だ。終わって1階でお導師との録画取りのあとは、ガールスカウトとの交流である。路子氏が右代表で挨拶をされる。ここはもう青年部の独壇場。何を言われたかこちらにはわからないのである。

女史著作の英語の本が一行に贈られる。ウウン、帰りも荷物あるなあ、と余計なことを思いながら、義捐金贈呈後、邸宅を出発する。予定していたパソコンのマウスパッドは国宝の琳派のあやめに変更した。

 <小乗と大乗仏教の差異あれど 民の仏心あふれるベルワラ>

このあと、ベルワラ市の市役所を訪れ、義捐金をお渡しする。玄関先で花のレイを全員首にかけてもらい、なにかえらくなったような、それでいていささか待たされたりもした。途中、ココナツ椰子のジュースが出され、木の実をかかえ,吸い尽くすのに汗さえかいた。思えばしかし、何日も津波で海を漂流し、このココナツ椰子で命を助かった方がいたとテレビも放映していたので、あだやおろそかにはできないのであった。腹はブクブクになっていた。ここのコーディネーターは小乗仏教のオレンジの衣のお坊様である。大阪組のお教務がたはすでに懇意のようであったが、大阪にこられた事があったとか。案内したところが銭湯であったというからさぞかし師僧は困られたであろう。そして“霊鷲山に法華経の開講ができた”のもこの方の存在と力が大きく働いたと、後で伺った。

(10)最後のお講は、タクト付き? 

市役所での贈呈が終わると、昨日予約した海岸沿いのホテルのレストランにバックする。すでに何人かの何度も見慣れた法子ちゃんとお母さん他の方々である。ここでは焼き鳥やおすしもあってそれなりに日本食を意識している。焼き鳥は結構いけてお替わりをしたが、おすしはいただけない。あの細長い外米なのだ。一口でだめだった。ああ、まあるいお米がたべたいなあとふと思うがここはスリランカだ、しかもまだ支援の旅の途中だ。

兼子隆二君が、右手での食事に挑戦している。若者はさすがだ。私もやってやれないことはないが、右手より左手で食べたいのだ。しかしこれはご法度。ゆえにあきらめる。お導師に人生相談を始めた若者もいる。

 <お導師も小乗師僧も持っている 托鉢バックはランカのみやげ>

おわれば、昨日から目をつけておいた土産品コーナーへ走る。むろん所在を告げておいてのこと。肩からかける布のフクロを4枚。象の模様縫い取りのバックが3個。上下の洋服が2着。換金していた1万円内でおさまる。シンガポールでの土産は近代過ぎて面白くなさそうだったので、ここしかないと判断したのだった。とにかく急いだ。正解だった。朝早く夜遅いスケジュールの中では、この主婦感覚は優等生並。読みが深いなあ。

 <わが前に乳飲み子抱きて手を合わす スリランカなる国の女性は>

車は、今回の最大のイベント、『青年たちとの交流』の会場へ向けてひた走る。コロンボには近いようだ。緑に囲まれた親会場【高校の英語の先生宅】には、ムンムンするほどの人たちが集まっていた。青年、少年少女、成人女性、男性【少少暗い感じだが】の数々。人数にして70から80人はいたと思う。お看経の前に、一人ひとりに義捐金が渡される。しかし、今回は趣向が違う。お導師はお一人のみで、あとは参加者全員が一人一人に渡すのだ。地元とよく打合せができていると感心する。私の場合はよくよく目が合っていた赤ちゃんのお母さん。贈り手が私だとわかると座らせていた赤ちゃんを抱き起こし、抱いて前に進み出てくる。その受け取り方の作法に感心した。こちらの方がありがたくなるほどだ。

 <スコールの最中なりし看経の 一大唱和にあしたを見ゆる>

やがて、お看経がはじまる。しかし声が聞こえない。みんな信者なのかどうかはわからない。高校の英語の先生の教え子というが、それ以外にも人は沢山いた。仏教心厚く手は合掌しているのだが、カンキンカンキン拍子木の音の中では、この合掌姿でじっとしているのも苦痛ではないかと思った。何かしなくては!どうすればいい?もっと声を上げさせなくては!私はもじもじし始めた。しかしやるしかない。立ち上がった。私の拍子木はすでに,昨日入信の銀行マン氏に差し上げていたので手元にはない。ナムミョウホーレンゲーキョー ナムミョウホーレンゲーキョー、大きな声を出す。

 <高校の先生にしてリーダーなる 法華経いかに教えるなるや>

わかりにくそうなので今度は右手の指を1、2,3,4,5,6と折っていく。終わると又1から数え、ナムミョウホーレンゲーキョーと促す。ところがこの指折りが生半可ではない。結構くたびれる。少し声が大きくなったようだ。いいかな、いやだめだ。ようし、一人ひとりを指差してみよう。個別性だ。相手の顔を見て目を見て次々と指差す。指差された方は何とか『選ばれた者』としてのプライドも手伝ってか、だんだんに声の唱和が始まる。汗は拭くなんてもんじゃない。噴出すのだから汗の主体性に任せるしかない。外は昨日と同じようなスコールだ。ナムミョウホーレンゲーキョー ナムミョウホーレンゲーキョー・・・・・・・。声が枯れそうだった。そうしたら神戸の信者さんもリードをしている。血圧も上がりそうだった。

しかし、お導師の『リン』が入らない。ああ、指揮棒でもふりたいなあ、という心境。でもあまりやるとお導師の存在を無視したことになる。ぐっとこらえて私は少し静かな看経に戻る。やがてリンがなる。授業終了の鐘がなったようなものだ。助かった!

 <クリアリィ・ビューティフルにも挨拶す 14歳の少女のお礼>

やがて、若者同士の交流が始まる。みんな手帳やノートに住所や名前を交換し、手紙やメールを出そうという。壮大なる先生とお導師がたの設営に子どもたちは夢中だ。バナナ、紅茶、ケーキなどのご供養が出る。日本から持参したお菓子もここで分けられ差し出される。もう熱気そのものだった。14歳の少女のお礼の英語は見事だった。この子、日本に留学するかも、とふと思った。ならば,お金が要る。スリランカ基金より、国際交流基金の方が使い勝手がいいかもしれない。思いは膨らんでいく。出せるお金はあるだろうかとも・・・。

記念撮影の後、帰途につく。もう夜は迫っていた。海岸線に出る。『早く夕焼けを撮らなくては」と瓜生さんを促す。『それ!』『シャッター!』しかし、夕陽はもう待ってはくれず、夕闇の世界をコロンボへと車は猛スピードで走りぬける。40分で帰るのだと。ひやひやの50分だった。

紅茶のお土産は、店が閉まっており、ホテルとなりのスーパーで買うことに変更。

そのため、ホテルで待っていた法子ちゃん一家をはじめ関係の方々には、多くが挨拶もしそびれてしまった。許されよ。法子ちゃん。

(11) コロンボ最後の晩餐は火責め口攻め

コロンボ最後の夜となるの、少し贅沢をしましょうということで、ホテルの魚コーナーに出向く。妙深寺ご一行9名様の晩餐である。メニューがなかなか決まらない。魚の種類、調理のしかた、そして値段もそれなりに見ておかないと大変なことになる。

男性群がようやく立ち上がって魚を見に行く。しかしご想像あれ。日本の生簀に入っているような代物ではない。グテーッとして、鰯なんかのあの色を見たら、煮るか揚げるか焼くしかないではないか。こりゃあかんとそこそこのものにした。

ところが、男性群はここぞとばかり、ご注文遊ばして食べられるのかしらと思うほどだ。隣の20歳の柳沢君が魚をたべて後の野菜を残しているので、もったいなくて、『これ、いただいていい?』と食べ始めたのだった。さあ、困った。口の中が火の出るような熱さ。ビールを飲もうが水を飲もうが収まらない。『ああ〜ああああ〜〜、はあ〜〜、ああああ・・・』と私は奇声を上げた。おまけに手を上に上げ祈りの姿勢だ。青の唐辛子をいただいてしまったらしい。うどんそばにも唐辛子の粉さえ振り掛けない謹厳実直な私は、突然ただならぬアラーの神を求めるごとき態度に出てしまったのだった。清康師、瓜生さんは各語る。『あの高島さんが狂ってしまった?!』と。今日はホントにおかしかった。自分でもそう思う。

(12) シンガポールへ、そして日本のお新香が待っていた!

ホテル22時半出発。空港へ。シンガポールへは夜中というか、最早明け方だった。休憩のホテルに到着したときは完全に朝。それぞれに朝食をとる。女性群は中華料理店にはいり、簡単なものをとり、暖かい中国茶を全員がとったのだが、これが中国式抹茶みたいなもので、香りを楽しみ、何杯も何杯もお代わりをしてくださった。

後は、マーライオンとかを見に行く人、ショッピングセンターに行く人、散歩に行く人とさまざま。ホテルで少し休んでおしゃべりも愉しかった。

まさに最後の晩餐は、何処から出して下さったか確認しそこなったが、お導師が散歩の途中予約しておいた近くの中華レストランで、会食となった。

 <スリランカこの人生の経験は 大きな発見・喜び・感謝>

お導師の挨拶の後、『高島さん進めてください』とおきなりおっしゃるものだから、一人ひとりの感想を聞いていき、メモも取った。皆さんいい挨拶会をされる。大阪組のお講師のお一人は、途中涙ぐむほどであった。

ところがである。そのメモが見つからない。確かどこかにしまったはずなのに。ああ、年は争えない。そこで個別性をあえて排除しまとめて見たのが上の句である。大きな発見・喜び・感謝に尽きると見た。

(13) 宗門のご支持のありて支援なる スリランカ行きただありがたき

福岡お導師に感謝、皆さんに感謝である。津波被災支援という新しいジャンルの未知の道であったが、先達のよろしきを得て貴重な経験をすることができた。これも宗門はじめ、仏立宗のバックアップがあってこそである。そのことには是非触れておかねばなるまい。

YCAT(横浜エアーターミナル、横浜駅東口)までご住職も迎えて下さり、また到着後は、ご宝前に無事帰国のお礼のお看経をさせていただいた。そのとき気がついたのだが、門前での瓜生さんの涙、お看経中のご住職の涙を忘れることはできない。

それほど重い決断だったのだ。こういう決断をしてくださった妙深寺そのものにも感謝をしたい。その後の白いご飯と味噌汁、お新香はつくづく日本人であることの喜びでもあった。寿美江夫人以下にもあらためてお礼を申しあげたい。

(終わり)


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