ありがとうございます。今回スリランカから十四名のご信者を妙深寺へ招かれ、そのお会式の導師をさせていただき大変光栄に思っております。以前から妙深寺さんにはスリランカの支援活動など大変なご協力をいただき心から感謝をしております。
■「悟れる人」とは
さて、「悟る」って何ですかって聞かれるんですが、自分が悟ってないのにね、「悟りってこんなもんや」って言いにくいですよね。だけど私たちは悟るために信心させてもらってるんです。私たちのような凡夫がどうしたら悟れるかということをこの御教歌はお示しになっているんですね。
香風寺は須磨駅から五分のところにあります。お寺の前の道は大変細いんですが、朝夕の通勤時間にはたくさん通っています。この方々に何か佛立宗からのメッセージを伝えたいということで、掲示板を作りまして、先師聖人のお言葉を張り出した。でもね、だ〜れも見てへん(笑)。やっぱり格調高い文章で書かれたものは敬遠されますな。そこでそのお心を頂いて今流に表現しなおして張り出した。そしたらだんだん立ち止まって見だすようになりました。これを香風寺で一番字の上手な習字の先生に書いていただいている。すると最近「香風寺のご住職は字が上手ですな〜」って評判なんです。これはいい誤解なのでそのままにしてます(笑)。
その中から最近張り出した言葉を今日はプリントにしてきました。
《悟った人とは、人との比較で自分自身を規定しない人のことです。人をうらやまず、さりとて見下さず、自分の器、自分の命を堂々と生きる人が悟った人です》
フランスにパスカルという哲学者がいましてね、「人間には二種類の無知がある」というんです。「一つは生まれたままの状態、なにも知らないという無知」これは何の教育も受けなければみんな無知ですね。ところがもう一方は、「優れた人が、自分が知りうる限りのことを極め尽くし、知り尽くした結果、最後にたどり着く無知」これは、本当に賢い人が色んなことを勉強した結果、最後にどういう境地に行くかというと、「私は何も知らん、ただの無知な人間や」という所にたどり着くんだというんですね。しかし「この無知は本当に知恵のある無知である」という。ところが私たち普通の人間は、そこまでたどり着かず、ちょっと聞きかじった学問や学歴に物知り顔になる。こういう人が本当は愚かな人なんだ、というんですね。
これを見まして、佛立宗でいう悟りというのもこれやなと思いました。なぜかというと、お祖師さまは「日蓮は名字の凡夫」と自分のことをおっしゃってる。「名字」というのは「ただ御題目をありがたいと唱えるしか私には能がない」ということ。しかしある学者は「日蓮聖人ほどあらゆる学問を身につけた人物はいない」と言ってる。その日蓮聖人が最終的にたどり着いた境地が「日蓮は名字の凡夫」。知りうる限りのことを極め尽くしたのち、自分は何も知らないことを悟り、もとの出発点に帰っていく。
佛立宗を開かれた日扇聖人も「清風は/どんなおやじと/人とはゞ/なんにもしらぬ/真の俗物」とおっしゃってる。開導聖人は、江戸末期から明治の日本の知識人の中でも指折りの方ですよ。これは本当に悟った人が言える言葉なんです。
■「佛」と「沸」
悟るというのは「仏さん」になったということ。みんな「うちの仏さん」って言いますね。亡くなったご先祖さんのこと。でもあれおかしいんです。死んでも普通の人は仏にはなれないんです。「仏」という字は旧字体で「佛」ですね。これは「人間」と「弗」です。この「弗」という字は「頂点まで達して姿が変わる」という意味です。さんずいを付けて「沸」となると、水の温度が頂点に達して水が水でない状態に「変わる」という意味。それににんべんを付けますと人が頂点に達して抜けきった状態。つまり人と比べて「俺は勝ってる」とか「劣ってる」とか勝ったや負けたというような世俗のレベルで優越感や劣等感を感じない境地になった人が「佛」なんです。
これみなさん、こういう境地には誰でもなれるんです。学問や学歴いらないんです。だから皆さんもこのご信心さえすれば、そういう境地になれる。「さとらずも/ さとれる人と/也にけり」です。
■ 夫婦の関係
私たちは所詮人間「凡夫」ですから、どうしても人と勝った負けた、劣ってる優れてると比較したくなりますね。生きておりますと「人間関係そのものが人生」と言ってもいいですね。その人間関係で一番長く付き合わないといけないというのが「夫婦」ですね。私も今年結婚三十三年。長いこともちました(笑)。この年になってしみじみ「夫婦の関係は年代によって変わるもんだ」と感じるようになりましたね。
《色んな人間関係の中で夫婦関係ほど我慢の必要な間柄はありません》
…これ私の実感なんです(笑)。
《我慢するのはいいのですが、どちらか一方だけというのは不自然です》
夫婦関係。二十代は「愛」。「あなただけが生き甲斐なの」…これは二十代で終わりを告げる(笑)。
三十代は「努力」。…なんでか言うと、見込み違いだと分かり始める(笑)。最初はアバタもエクボや思てたのが、やっぱりアバタはアバタやった(笑)。
四十代は「我慢」。…家内の「美貌」が衰える、かわって「脂肪」が増えてくる(笑)。奥さんは主人のイビキに悩まされて、耳栓を買わなくてはならない(笑)。
私は結婚したての頃、建国寺の先住石川日建上人から言われたことがあるんです。「なぁ良樹さん、奥さんの愚痴をな、毎日一時間聞いたらなあかんよ」って。なかなか実行できませんよ。家内の愚痴を聞いてもすぐ「そないグチグチ言うな」って言いたくなるけどね、「一時間と言われたんだからせめて十分は聞かなならんな」と。それで私は家内の愚痴を十分聞いて、家内は私の愚痴を一時間聞いてくれてるんです(笑)。
五十代は「諦め」。それでこれがそのまま行くと六十代は「怨念」になっちゃう。でもね、私も今年六十になりました。六十は還暦です。還暦というのは「暦が還る」ってことでしょ。元の原点に戻らないかん。だから、六十代になって互いに「感謝」という所にかえっていかないかん。なんとなく照れくさいけどね。「愛を感謝にかえて」というサイクルで人生を送っていきたいなと思う今日この頃でございます(笑)。
■ 真に豊かな人生とは
《人間は生きてきたように老います。ボケる人はボケるように生きてきたのです》
八十五を過ぎますと、四人に一人は確実にボケるそうですね。(前列の参詣者を指さして)一、二、三、ここで一人。一、二…、また一人(笑)。ボケるんです。ボケないようにしなくてはなりません。どんな人がボケるか。「感動、感謝の心を忘れた人」。こういう人はボケる度合いが高い。お陰さまでという心。それから「役割を失った人」。
私もよくあるんですが、物忘れしますでしょ。でも物忘れとボケは違うんです。同じだったら私ももうボケてますわ。道で出会う人、見覚えあるんですよ、でも誰やったか思い出せない。「誰やったかな…、散髪屋のおじさんかな…、肉屋のオッちゃんかな…、あ! 私の亭主やった!」(笑)。なんてね。冷蔵庫開けて何を取り出すか忘れることもありますな。でもこれはボケではありません、ド忘れですね。
ボケない人の特徴「カキクケコ」。
カ…感動。いつも感動してる。こないだ妙深寺さんではイタリアに行かれましたね。それからスリランカにも来てくださった。みんな感動を持って帰らはった。でも感動できない人「はぁ、イタリアこんなもんかい」これではダメですね。人と人との出逢いに感動する。こういう人はボケないです。
キ…興味。心が柔らかい。何でも興味を持つ。
ク…工夫する。どうしたらいいかなといつも考える。
ケ…健康。歩く人はボケない。足のつま先と頭とは連動してるんです。だから一日一時間は歩かなきゃダメです。これボケない秘訣。
コ…恋心。恋をしましょう。心ワクワク。ときめく。心のときめきを失ったらダメですね。フランスで恋の冒険のことを「アバンチュール」って言うんですね。アバンチュールしなければダメです。この前イタリアに団参で来てくださった中で八十近い方がおられた。こういう方はイタリアに行くだけでも冒険ですよね。こういう方を「オバンチュール」って言うんです(笑)。
《定年退職後の生き方こそその人の真価が表れる。退職後は現役時代の二倍三倍の気合いを入れて自分の人生を生きるべきです》
現役時代は嫌がおうでもあてがわれた仕事をせないけません。そういうふうにあてがわれたことがなくなったときこそ「自分の意志で自分の人生を生きていこう」という気合いが入らなかったらあとはダメな人生になってしまいます。今はセカンドライフのほうが長いですからね、気合いを入れて生きなあきません。
この前お講に行ったら、そこの席主の方、お年寄りのおじいさんでしたけど、御法門の途中で「ちょっとフラフラしますんで、横になってきます」言うて席主がお講の途中で隣の部屋で寝てる。で、ご供養のときだけ気合いを入れて出てきよる(笑)。気合いの入れ方が間違っとるんです。
《いつも背筋をシャンと伸ばすように心がけること。これが自分に気合いをいれる極意です》
やっぱり形から入る。みなさんグッと胸を張って背筋伸ばしてみてください、気合い入りますよ。特にお看経のとき。背筋を伸ばすとお看経に気合いが入りますね。
そういう姿のご信心、そして心の中は一念信解・初随喜で「ありがたいなぁ、お陰さまで」そういう心で唱える御題目によって、知らず知らずのうちに人を見下したり、あるいは優越感や劣等感を感じたり、人と比べて「勝った、負けた」という心が抜けてくるんですね。自然にそうなるもんなんです。そうなったときに、その人は自覚はありませんが、すでにその方は「悟った人」です。抜けきった人ですね。
■ ご信心で「悟れる」人に!
そういう悟りの功徳、御利益をもたらしてくださるご信心が、この御題目口唱の名字即のご信心。これが佛立宗です。難しい信心やない。ひと言で言うたらそれなんです。シンプルなのがベストなんですね。このシンプルな信心だからこそ、スリランカの人も何も知らない、ただありがたいと思って御題目を唱えるだけで、六万七万の方々が亡くなったあの津波の災害で、六千人のご信者さんでは一人も亡くならなかった。みんな御利益を頂いているんです。手放しでは喜べませんけれど、やっぱりしみじみと「あぁ、このご信心のお陰や」と感じてる。その人たちは何も理屈も分からない。みんな「ありがたい」という思いだけで、名字即になって、一念信解、初随喜で御題目を唱えて、悟る人になったから、御法さまからご守護があったんですね。だからみなさん、みんな「悟れる人」になれるんです。そういう気持ちにさえなれば。そのことを「さとらずも さとれる人と 也にけり 信心ばかり 貴きはなし」とお示しです。
このご信心によって、お互いにそういう境地に早くならせていただき、周りの人たちにもそういう気持ちを分け与えられるよう、心がけさせていただきたいものであります。
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