ありがとうございます。大変な春の雨の中、お参詣をいただきましてありがとうございます。今日はこの後、ブラジルにご奉公へ出発いたします。途中でロサンゼルスに寄るのですが、そこで先日入信された方に御本尊の奉安をさせていただけることになっており、有り難いなぁと思っております。また、ブラジルのご奉公が終わりますと、今度はフランス経由で帰ってきまして、パリのご信者さんのお宅へお助行させていただくことになっております。四月十一日まで、二十三日間の海外でのご奉公となります。長期となり不安もありますが、また無事に日本に戻りまして、海外でも仏さまの教えが伝わっていることをみなさんにご紹介したいと思っております。
さて、このお彼岸ですが、今日皆さまは、ご回向の志を立てて、お塔婆を建立されたり、お寺にお参りをして手を合わせる、大変な功徳を積まれました。しかし、では何でもいいかというと、そうではないということをお話しをさせていただきたいと思います。
本当の、正しい先祖回向をするにはどうしたらいいか。それは真実の仏教、上行所伝の御題目、妙法の御経力、仏教の至宝「南無妙法蓮華経」の御題目による真のご回向でなければならない。枝葉末節に分かれた諸宗、あるいは間違った新興宗教等から脱却する覚悟が必要である。それこそ仏教の原点、仏道修行の根幹、正しい回向、信行の姿であると教えていただく御教歌です。
世間一般でも親孝行というのは何より大切と言います。お彼岸も、祖霊孝養と言ったりします。先祖の霊魂に対して孝養を尽くす。誰が考えても、亡くなってもなお親への感謝を忘れず、手を合わせ、お墓参りをしよう、お寺に行こうということは言うわけです。でも、本当の仏教というものを考えれば、何でもいいからすれば親孝行だ、墓参りして手を合わせておきなさいとだけ言うわけにはいきません。
古くから得度式で剃髪をする時に「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」という御経文を唱えます。これは、この宇宙で何度も何度も流れ転じて今まで生まれ変わってきた間、親や兄弟、夫婦という情愛、恩愛を断ち切れないことから煩悩の迷いに落ちてしまうことが多かった。しかし思い切ってそれを一度捨てて悟りの道に入り、真実報恩の道につかせてもらいたい、こういう御文です。これはお釈迦様が、親子や家族の情愛を一端断ち切って、そこから修行をし、悟りを開いて、また戻って自分の父親や母親や自分の愛する子どもたちを助けたこと、それが仏教の原点、道だということです。もちろん愛や恩は、正しい生き方を妨げない限りは大事なものですね。だけど真実の道を生きていこうとするために、時として愛が妨げることがある。迷わせる時がある。そういう時はそれに振り回されてはいけないと説くのです。この原点を頂いて、ご回向、先祖回向、信仰、宗教というものを考えてみてください。親からの宗旨であっても正しい仏の教えでなければならないではないか。そうでなければ棄恩、一度捨てなさいと。それが真実の仏教の教えであり、諸経中王最為第一の御題目のご信心をする者の覚悟であるとお教えです。
親からの宗旨を捨てる、これは大変なことですよ。親は「あんた私が死んでもきちんと家のことやってね」と言いますよね。これが正しいことだったら有り難いことです。だけど、たとえ親が残したことであっても、間違っているものだったらそれを捨てることが真実の孝行です。「棄恩入無為」捨てても親孝行になる、弔いとなる不思議な法が本門八品所顕上行所伝の御題目なんです。
お祖師さまの御妙判に、「烏龍と遺龍」というお話がありまして、烏龍という中国の有名な書家がいた。ところが大の法華嫌いだった。その息子の遺龍に対して「よもや何があっても法華経だけは書写をするな」と遺言を残して亡くなった。遺龍は健気に孝行の道と思ってその親の教えを守っていました。ところがある時、時の国王に呼ばれて、今頂いている法華経の御経文をおまえの手で書いてくれという依頼をされた。ところが親の遺言でこれは書けませんと再三お断りをした。ところが王からの要請も大変厳しく、これはもう断ることはできないと、「お父さんごめんなさい」と泣きながら法華経の御経文を書いた。数日後、この遺龍が寝ていますと、その枕部で父さんが本当に喜んでいる姿が現れた。お父さんが言うには「自分は大変苦しいところにいたんだけども、お前の書いた御経文のひとつひとつが金色の仏になって私のところへ来て助けてくれた」その時に「仮使遍法界 断善諸衆生 一聞 法華経 決定成菩提」という御文が聞こえて法華経の功徳が父親へまわったというお話しです。
このことからも、親の教えを守るとういことは一般的にはものすごく大事ですが、それが間違った信仰に基づいておりましたら、それは孝行ではない。それを捨てて真実の仏教、上行所伝の御題目のご信心で弔うことが真実のご回向となるのです。
お祖師さまの御妙判を頂戴いたしますと「されば日蓮はこの経文を見候しかば、父母手をすりて制せしかども、師にて候し人、勘当せしかども、鎌倉殿の御勘気を二度までかほり、すでに頸となりしかども、ついに恐れずして候へば、今は日本国の人々も道理かと申すへんもあるやらん。日本国に国主、父母、師匠の申す事を用いずして、ついに天の助けをかほる人は、日蓮より外は出しがたくや候はんずらん、云々」とお示しでございまして、法華経に反することであれば、父母や国の主の言うことを用いないのが、孝養ともなり国の恩を報ずることになるという、この御経文を見たら、父母は手をすり合わせながら止める、当時の清澄のお師匠は勘当する、執権の怒りを二度まで被って首を切られようとしても、今ようやく日本の人々は日蓮が言っていることは正しいのではないかと考えてくるようになってきた。日本の中に国の主や父や母、師匠の言うことを用いないで、ついに天の助けを被るのは自分自身以外はないのではないか。なぜそうなのかといえば、この弔いとなる上行所伝の御題目を信じ、明らかにすることによる。だからみんなこのご信心をさせていただかなければならない、とお示しです。
開導聖人の御指南には「古来より先祖の宗旨を変えるは親不幸なりと云々。乃至、答う。時に従い、根機に相応したる経を持てよと仏説にあれども、親孝行、説かれたることさらになし。乃至、時がうつれば人機も変わる云々」かように御指南くだされております。昔から先祖の宗旨を変えるのは親不幸だと言うけれど、この法華経本門の教えに限ってはそうではない。時が変われば人の性質も変わるものである、とお示しです。
いつも話しているんですが、自分の愛する子どもが病気になって町の小さな医者でいいですという人はいないと思うんですね。それこそ世界最高のお医者さんを探して世界最高の治療を受けさせてあげたいと思うのが親の本当の愛です。それをせず間違った信仰続けていて自分も家族も悪い方向に持って行くようでは大変にもったいない。残念で、不幸の原因を積み重ねているということになるのです。
二月の末にイタリアへご奉公させていただきましたが、イタリアの人たちも、カトリックという、親からというより、もうイタリアの歴史そのものの宗教から抜け出して、私たちの想像を絶するような覚悟を持って本門佛立宗の御題目のご信心をされています。ご信者さんのお宅に行っても、小さなお塔婆が建ててあってイタリア語で自分の先祖の名前を書いて御題目でご回向されている。いつも言っている通り、これもカトリックの教えとは全然違います。カトリックの教会はきれいです。でも、カトリックの教会というのは大きなお墓なんですね。教会の端っこを歩いたりしますと小窓があったりします。この小窓の下には聖人や牧師の遺体がそのまま床下に埋めてあるんです。みんな遺体の上を歩いているわけですね。彼らは救世主であるイエスキリストがもう一回この世に現れ、全員がそこから召されて神の国に行くと信じている。そういう死生観です。
イタリアでは今、エクソシストがものすごく流行ってしまっています。エクソシストというのは映画にもなった「悪魔払い師」ですね。ローマの近くのアポストロフィ大学というところでエクソシスト養成四ヶ月講座というのがあるくらいです。ところが、エクソシストというのは必ず「二元論」なんです。俺は良い方、悪魔は悪い方、「出て行け、くそったれ」という、ものすごい悪い言葉を使います。患者さんが教会に来て、映画のように悪魔払いを、一時間コースかなんかやった後に「あぁ〜すっきりした」って帰っていく。でも同じようにまた悪霊がついてしまうので、また毎週のように教会に通わないといけないわけです。そんなことは本当の仏教ではまずありません。この違いをイタリアの人たちも感じているわけです。
この十界の御本尊、南無妙法蓮華経の中には地獄界まで入っているんですよね。これがカトリックの教会の人たちには驚きです。キリスト教の概念では、神の善なる世界と悪の世界とは完全に分かれているものなのに。光の世界も暗い世界も南無妙法蓮華経の中で混在しているのはすごい。だから仏教では、排除ではなくて一回許容して、許して乗り越えていくというのがこのご回向から生まれます。
ブラジルもカトリックの国ですから、イタリアの今の御弘通の盛り上がりがそのままブラジルの人たちの勉強にもなりますし、大変有り難いです。
スリランカでも同様に土地の宗教、上座部仏教というのがあります。この中でもその宗旨を捨てて親孝行をしよう、先祖回向をしようという人たちがたくさん生まれてきております。
この前、スリランカのご信者さんのアベイさんとガマゲさんが妙深寺に来てくれました。そのときにも「この御題目のご信心は本当にすごい」というご回向のお話をしてくれたんです。
あるとき奥さんのお友達が深刻な顔をしてアベイさんに会いに来ました。理由はその女性の息子さんが突然豹変してまるで悪霊が憑いたみたいに家の中で暴れる。ものすごく反抗的になる。何でそうなるのかわからない。しかも自分の母親に暴力を振るっている。彼女の顔を見ると傷がついている。普通の考え方だと家庭内暴力かな、反抗期かなという話です。だけど、聞いてみるとちょっと違う。アベイさんはその女性の家にお助行に行った。その家は毎日不思議な現象が起きていて、キリスト教やイスラム教のエクソシストを呼んでその霊を鎮めようと何度もしてきました。だけど、まったく効果が無くて息子は相変わらず暴れる。その家にアベイさんが行って、御題目を唱える意味を説明をして御本尊を奉安して御本尊の前で御題目を唱えなさいと伝えた。実はその先祖の家族はものすごく悲しい過去を背負っていました。それで、いつもはアベイさんは御本尊奉安の時には十名ぐらいのご信者さんと一緒に行くんですが、そういう家庭の事情がありましたのでアベイさんとご家族だけでご奉公することにした。初めてその家に行って御本尊をお祀りした時、その家の息子が出てきて扉を閉めて鍵を全部閉めた。アベイさん側は奥さんとまだ小さい息子さんと三人だけで、ちょっと怖い気持ちになったと言っていました。暴れる息子が家の扉も窓の鍵も全部締め切ったわけですから、もう家から出られない。御本尊を奉安してアベイさん家族と母親と息子が御本尊の前でお看経をあげている間も大きな足音のような不気味な音が家の中で聞こえてくる。窓を全部閉め切っているのにゾッとするような風が突然吹いたりする。アベイさん自身も身の毛のよだつような気持ちがした。突然、御導師をしているアベイさんの後ろから大きな叫び声が「わぁー!」と聞こえた。母親が立ち上がって叫んでいたんですけれども、その声はもう女の人の声じゃない。びっくりしたアベイさんは母親を落ち着かせようと押さえ込んだんですけども、プロレスラーのような力だった。母親の頭にお数珠をあてて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」としばらくお唱えをした。徐々に彼女も静まっていってお助行が終わるとそれまでの暗い雰囲気がうそみたいに晴れて、母親と息子も「気分がとても良いです。ありがとうございます」と言ってくれた。母親が「お茶でもどうぞ、今お持ちします」と言ってくれたんですけど、アベイさんの奥さんがもう震え上がっていて「今すぐこの家から出たい。早く行きましょう」と言ってきた。仕方なく家から出ると奥さんは「あなたあの家には母子の二人しかいないって言ったでしょ? だけどもう一人いたわよね? 私は彼を見たの。顔が真っ赤だったわ!」アベイさんは御本尊の真っ正面に座っていたので見えなかったんですけども、その右側にいた奥さんは前の窓に白い服の男が立っていて、顔が真っ赤に染まっている。その男が御本尊をのぞき込むように見ていたのも見えた。無始已来の言上が終わった時に窓をすり抜けて去っていった、と奥さんは言ったそうです。
その後、アベイさんはまたお助行に行ったんですけども、母親は「もう何の現象も起こらない。本当にありがとうございました。ところであなたは大丈夫ですか?」と言うんです。何でかというと、いつも家に悪魔払いにきたエクソシストたちは、その後必ず原因不明のトラブルや事故や怪我に巻き込まれているというのです。でもアベイさんは、「私はまったく大丈夫ですよ。でもこれは私が凄いのではありません。御本尊、御題目の御力が凄いだけです。ですからあなたは御題目をしっかりとお唱えすることを続けなければなりません」と彼女に話をしたと言っていました。
先祖、土着の信仰や文化に根ざした宗教もあるけれども、今この時代は法華経本門の教えが弘まる時。この普遍的な御題目で、スリランカに住んでいるご家族のトラブルまでもが乗り越えられるということを実感させていただくわけですね。
さぁ私たち、日本のご信者みなさま方がこうして正しい先祖回向をされているわけですけれども、私たちの周りにはまだまだ親からの宗旨を捨てられない、だって親孝行だからと思っている方もたくさんいます。そういう方々に本当の仏さまの教えの原点に根ざした親孝行というのは何か。「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」真実の報恩、本当に親に先祖に恩を返すためには本当の仏の教えを手にして本当のご回向をしなければならない。どうかひとつ、私たちはこの仏教の至宝「南無妙法蓮華経」を手に、そのことをしっかり随喜、喜んで、特別な日だけでなく、日夜に御題目を唱えさせていただくことが大事であると感得させていただく御教歌です。
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