心の持ちようが体に影響し、家庭、周りの社会、「あめがした」とは天下ということ。世の中全てに影響を与えるとお示しです。
十年前、清潤師が血相を変えてやってきまして、「これからはインターネットで佛立宗の教えを世界に発信しなきゃいけません。御導師協力してください」ということで、それまでに訳していた佛立宗紹介の文章をインターネットのホームページに載せていただきました。それがきっかけで、イタリア・アメリカ・スリランカとご弘通の芽ができたんですね。
何か発信しようという思いからいろんな物事が展開していく。悪い心は悪い結果をもたらし、良い心は良い結果をもたらす。それがこの御教歌のお意です。
なんでそうなるか。これは法華経に「一念三千」という教えがありまして、「一念」とは皆さんの心。「三千」とは世の中全部。皆さん一人一人の心の中には世の中全ての情報が備わってる。だから皆さんは、世の中の全ての良い人とも悪い人とも、良い縁とも悪い縁とも、目に見えない糸でつながってる。その中からどのような人や物事を自分の方へたぐりよせるかは皆さんの一念次第なんです。
じゃあどのような心の持ち方、「一念」が人生をより良く作り替えていくのでしょうか。
■ 人のせいにしない
《信心とは、どんなに苦しい境遇でも、それを身から出たサビと甘受しようとする心構えのことをいいます。思わしくないことが起こったとき、それを人のせい、世の中のせい、親のせい、方角のせい、日柄のせい、名前のせいにするのを迷信といいます》
我々ね、「なんかええことあったらそれは自分の手柄、悪いことは人のせい」なんです。でも佛立宗のご信心では、それを切り替えなさいというんです。「良いことはおかげさま、悪いことは身から出たサビ」…私たちの思いとは正反対なんですね。だからそれをいつも忘れないように「無始已来 謗法罪障消滅…」ってお懺悔させてもらうんです。この懺悔の心が起きますと、人が許せるようになるんです。人間はいろんなことで人とわだかまりを持ちます。夫婦、親子、兄弟、親戚、あるいは隣人。だけどやっぱり最後は自分が許さなきゃダメです。「懺悔」の心が起こると「許す」心が起こる。最後には、そういう人にすら「ありがとう、おかげさまで」という感謝の心が抱けるようになるんです。
その手本を示されたのがお祖師さま、日蓮聖人です。日蓮聖人ほどこの御法を弘めるために迫害に遇われた方はいません。「大難四ヶ度、小難数を知らず」という迫害です。その中でも特に迫害を加え続けたのが、鎌倉幕府の侍大将、平ノ左右衛門尉頼綱。日蓮聖人に綱をかけて裸馬に乗せて鎌倉市中を引き回して龍ノ口で首を切ろうとした人です。ところが後に日蓮聖人は「私が寂光に帰ったら一番にあの平ノ左右衛門尉を寂光へ導いてあげたい。なぜならば、あの人がいたからこそ私は法華経の行者としての道を歩め、法華経のご信心のありがたさを皆に示すことができた。あの方も私にとっては恩人だ」とおっしゃってる。自分に敵対するものにまで感謝の心が抱ける。これは「懺悔の心」をお祖師さまが持っておられたからですね。だから何かあったときに「身から出たサビだ」と受け取れる。「私は悪くない、亭主が悪い、妻が悪い」これではいけません。
私の好きな詩なんですが、
「わたしがわたしに なるために
じんせいのしっぱいも ひつようでした
むだなくしんも ほねおりも かなしみも
すべて ひつようでした
わたしがわたしに なれたいま
みんなあなたの おかげです
おんじんたちに掌をあわせ
ありがとうございますと ひとりごと」
(をさ はるみ)
…その恩人というのは、自分によくしてくれた人たちだけではないんですね。そういう気持ちに切り替わるのはこれ「心の御利益」というんです。その「心の御利益」が「物の御利益」にかわっていくんです。
■ 悪口にとらわれない
それから私たちは「誤った観念」というものを持っています。「こうあるべきだ」という自分なりの観念ね。でもそれ間違ってるかもしれません。例えば私たち人間はお互いに、人から悪く言われるの嫌いなんですよ。みんな人からよく言われたい。でもそんなことばかりではありませんね。スリランカでもこれだけご弘通ができると、やはり他の教団からの反発というのがあるんです。ある新興教団は私のことを「デビル福岡」って呼んでるんです(笑)。光栄ですね。
だけどね、「悪く言われたくない」っていうのは虫が良すぎますわ。だって皆さん一日に一回か二回必ず人の悪口言ってるでしょ? 自分は人のこと悪く言ってて、何で自分は人から悪く言われたくないって思うの? 自分が言ってるんだから自分も言われて当たり前。人間悪口は言われるもんです。お会式にお参りするとき「どんな服着ていこうかしら」とちょっといい服着てごらんなさい。「あぁ、あの人このごろ金回りがいいんやわ」。ちょっと質素な服着てごらんなさい。「あぁ、あの人このごろ金ためてはるんやな」って(笑)。言われて当たり前やと思うこと。そうすると気持ちが楽になる。
■ 失敗を恐れない
「人にみっともないところを見せたくない」「恥をかきたくない」これも誤った考え方です。みっともないところを見せても、人から笑われることはありません。みんな「劣等感」を持っていますから、人がズッコケたことをしても笑いません、ホッとするんです。「あの人でもああなら、私も失敗しても大丈夫や」と。敬愛されこそすれ、笑われたりしません。だから人にみっともないところを見せたって構わないんです。
私は小学校のときに、ローマ字が読めなかったんです。その私がまがりなりにも英語でご弘通ができるようになった。それは恥をかいたからです。語学は恥をかかなかったら上達しません。恥をかくことによって自分が高められるんですね。
こうして今、ご弘通の成果だけが届いてますが、成果は一部分です。あとはほとんど「失敗」。落ち込みますよ失敗したら。だけどね、私はイチロー選手や松井選手に勇気づけられてるんです。三割打者で上等でしょう? ご弘通も「十人声かけて三人しか聞いてくれなんだ」…それは大成功ですよ。三割成功したら松井選手、イチロー選手並みですよ。
そんなふうに、受け止め方を変えていく。これが「一念」を変えるということですね。
■ 良い縁を発信する
それからもう一つは、「縁を大事にする」ということです。人は縁で生きているんです。
《良いご縁というものは、内に求める心のない人にはもたらされません。たとえ目の前にあったとしても縁を生じることはできないで終わるでしょう》
縁は周りにいっぱいあります。でもこちらの一念がその縁の方に向かなかったら、縁は結びません。
十月に、ローマとフィレンツェでお講がありまして、そのフィレンツェのお講はダニエレさんのお宅で二十数名の地元のご信者さんが集まりました。そんなかにプッチアーノさんという方が参っておられ、別のご信者さんが女性のお友だちを連れて来られた。そうすると、お互いに「あら?」どっかで見たことがある。するとプッチアーノさんとこの方は二十数年前に医大の同級生で、その二人が二十数年ぶりにお講席という縁を介して再会したんです。それでこの方も入信になった。縁というのはどこで実を結ぶかわかりません。
妙深寺さんとのご縁、スリランカの皆さんとのご縁も、何かを発信しよう、ご信心をお伝えしようという思いが、こういう形に展開していったわけですね。
スマトラ沖地震で、スリランカでは行方不明を入れますと七万人の方が亡くなられている。スリランカの佛立宗のご信者さんは現在六千人。その中で、夫を失った方、親戚を失った方、家を失った方、たくさんおられます。けれども、この御題目を唱え、ご信心をされていた方の中から一人も死者が出なかった。こういうときに御利益とは言えませんが、個人では「このご信心のおかげで」という思いを持たれています。
これは対岸の火事、よそごとではないんです。近未来に、スマトラ沖地震に匹敵するような地震が確実に起こりると言われてます。するとあんな津波も起きる。南海沖地震を想定しますと和歌山で高さ十五メートルくらいの津波が一・二分くらいの間に押し寄せるそうです。それから大阪湾で五メートル。そうすると私共のお寺だって危ないですね。スリランカでは七万人が亡くなり五十万人が家を失いましたがね、死者が出なかったのは佛立宗のご信者さんと、あと、動物は一匹も死ななかったそうです。動物は津波が押し寄せる一時間も前にドンドン奥へと逃げた。人間よりもそういう能力が優れているんですね。それで香風寺では地震対策に「ゾウを飼おう」と(笑)。でも、私たちは動物なんか飼わなくてもちゃんと御宝前が守ってくださるんですから、御宝前にお願いさえしておけば心配ないんですね。
■ 純粋な「一念」が大切
今回来られてるミランダさん、南スリランカの方をお教化されました。聞くと非常に貧しい所。というのは、雨が降らないんです。スリランカは小さな国ですけど地域によって非常に気候が違うんですね。だから作物ができず貧しい。それから電気が通ってない。そういうところへご奉公に行って、「御題目を唱えたらこの村は良くなります。この福岡さんのお話を聞いてみんなで御題目を唱えなさい」と、集会場に村人が集まって、そこでご信心のお話をして、御題目唱えましょうとお看経をさせてもらったんですね。そしたらちょうど同じ日に州知事さんがやってきましてね「今日は皆さんによいニュースがあります。この村に電気を通すことに決まりました」と。村の人は、このご信心のおかげだということで大変喜ばれました。
それからその後、この州知事さんに「あなたに案内したいところがある」ということで連れて行っていただいたところがあるんです。ある遺跡があると。スリランカは小乗仏教の国なんですが、歴史書を見ますと昔一時期、法華経が弘まった時期があるというんです。しかし弾圧を受けて滅んでしまった。法華経は平等思想を説きます。しかし王様にしてみると平等というのは都合が悪い。王は王、庶民は庶民ですから。それで法華経を排斥したんですね。連れて行かれた所には、朽ち果てた煉瓦造りの大きなドームの跡がありました。これは一五〇〇年前に法華経が広まった頃のお寺の跡だというんです。その因縁に導かれて私たちはその村に行ったんですね。それでその村の人たちは全部佛立宗に入信されました。
で、またミランダさん。「まだ次のご祈願があります。雨を降らしましょう!」。日程の都合で僕は帰国しましたが、それから三ヶ月して連絡が来た。あれからズーッと雨が降っているんだそうです。それで気象官が「あの村は今年は異常天候だ。雨が降らない時期に降っている」って首を傾げてるんです。昔は日本にもこんな御利益ありました。今スリランカでそれがあるんです。気持ちが純粋ですから、御宝前とすぐ感応しちゃうんです。心の一念が純粋であるかどうかが大切なんです。
■ 自分を変える
それと、自分の願いが御法の御意に叶う願いになったらその願いを叶えて下さる方が必ず目の前に現れてくるんです。これが縁なんです。この良い縁をもたらすのも一念。自分の心の持ちよう。そしてその心の持ちようを御題目のお膳の上に載せて御宝前にお届けするんです。その中から自分の周りがどんどんと変わってくるということですね。だから人のせいにしたらダメなんです。自分なんです。自分自身でどうゆうふうに切り替えていくか、これが大きな原点になりますね。
どうぞお互いに良いご信心の一念から良い出会い、良い出来事が皆さんの元にどんどんもたらされますように、ご信心にお気張りいただきたいと思います。
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