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白血病からの回復

千葉 由乃さん


編集者:昔の御利益を頂いた時の話とかを聞かしていただこうと思います。

母、千葉幸江:この人は小さかったし、どれだけ覚えているかな。

千葉由乃:自分は小さかったから何が何だかわかっていないんですけども。でも、病気したときは高岡さんのお婆ちゃんがよく来てくれた話を聞いてるけど、実際に現場は見ていないので覚えてないし、実際には見てないので、「あー、あー(そうだったんだ)しかわかりません。

編:お母さんは、どうですか?

幸:私はこと細かく毎日毎日、日記みたいにずーっと書いてますね。だから「本でも出せるかな?」ぐらい書いてます。まとめてないんですけど

編:改めて伺いますけど、何の病気だったんですか?

◇ 発 病 ◇

幸・由:「急性リンパ性白血病」です。

幸:最初の発端は、由乃が5歳の時で、ちょうど10月で運動会時期なんですね。幼稚園の運動会の練習の間に突然だったんです。

由:足の甲の所が痛いような、しびれるような、訳わかんない感じだったんです。

普通に立ちたいんだけど、立てなくって。「立てない」っていっても「嘘つけ」って言って、それで「その日まで頑張って練習しなさい」っていってたんです。年長さんは旗をもって、盛り上げるみたいなそういう競技があって。それを練習してた途中だったんです。それで、昨日まで歩けてたのに、しびれてるんじゃないんだけど、なんでか歩けなくなっちゃって。それでも「嘘つけ!」って言われる。その当時は、あんまりデパートとか行ったこと無かったんで、「デパート連れてってあげるから」とかいろいろ連れて行くからって言ってくれたりして、気持ちを高めてくれるんだけど、それでも立てない。家の中でもハイハイ状態。

幸:帰ってきても同じでした。それでお昼寝して、それからがまた立てない。でその日の晩、ほんとに泣いたりしない子なんだけど、御宝前でもう泣きわめいて、「御法さま!お願いですから治してください!」って一晩中。とにかく私はお看経を頂いて、由乃を御宝前の前に寝かして、この子はずっと次の朝まで「痛い、痛い」って泣いて。でも次の朝になっても立てない。その痛さの表現ができないのでもどかしいみたいで、それですぐに整形外科に連れて行ったんです。

その時、私が若い時にリュウマチしてるから、だからリュウマチかな?と思って血液検査も頼んだんです。でも、その時は分からないまま湿布だけでした。まさかその時は、そんな病気とは思ってもいないし「運動会の練習のしすぎかな?」って思って。それでしばらく整形外科に通ったんです。血液検査もしたけど分からない。

その間に主人が知り合いの先生に話して、大阪に小児科の大きい病院があるって教えてもらって、そこに連れて行けって言われました。

紹介所も持たないままに走ったんです。その時はもう歩けないし、おんぶして行ったら、大きい病院だったんで予約制で診察できないって言われました。

その時、私は「京都から来てるんですけど、歩けないんです」て訴えましたね。それで、「ちょっと待ってください」といわれ、調度その時間空いた先生がいて、そこにポンと入れてくれて、血液検査もしてもらったんです。その時点で出たデータは「小児リュウマチかもしれない」と言われ「やっぱし」と思いました。

でも、結果は一週間後だと言われたんです。でも、私は整形外科の方と内科の方と両方診てほしかったから、整形も診てほしいって言ったんです。

そしたら、次の日に整形の先生が来るといわれ、次の日診てもらったら整形の方ではどうもないという結果。じゃあ内科の方なんだということになって、一週間待ちました。

その間お寺にお参りしたり、なんかするんです。けど、この子お寺は大丈夫で、車酔いとかも全然なかったのに、途中まで来ると「お母さんしんどいよー。嫌だよー」っていって真っ青になるんです。血の気がないんです。元々色の白い子だったけども、これはちょっと普通じゃないな。と言いながらもお参りしたんです。一週間。それで一週間目に主人と同じ時間帯に病院に向かいました。途中、私が迷ってしまって、その間にこの子がしんどくなって、またおぶって病院に行きました。

先生がこの子を診て身体を触ったりして、すぐに血液検査と言われて、地下道を通って「そこで十分待ってくれたら結果が分かる」と言われ、結果を待ちました。

その検査結果の英語やらドイツ語やらで分からなかったけど見たら、そこには「四四四〇〇」という数字が書いてあったんです。

私の直感なんですけど、白血球が十倍。普通は三千〜四千位。その所に目がいったんです。「あー、これはー」と思いながら、とにかく先生に用紙を渡したらすぐに入院。「白血病です」って言われました。

「白血病」っていわれてもピンとこない。私が世間で言われている知識の中では「白血病=死」しか思わなかった。

この子は、御祈願を立てて御利益を頂いてようやく産まれたのがこの子だったんです。ほんとに子供ができなかったから、ずーっと御祈願立てさせていただいて、婦人科に通いながら二年間御祈願立てさせてもらってできた子供なんです。(長男から)何年も離れてようやくできた子なんです。だから「なんでこの子が!なんのために産まれてきたの!」ってすごく思いました。

だけど、現実は今の時点でこういうことなんだから、とにかく今日から治療した方がいいと言われました。でも私は「ちょっと待ってください」って言ったんです。ここまで来るのに病院まで二時間半かかるんです。この子は五歳になってるし三歳未満だったら付き添いできるんですけど、五歳ということは毎日通って来ないといけない。この子がですよ。ということは二時間半かけて毎日往復で五時間の行き来、しかも長丁場になると思って「私、できないと思うので、違う所を紹介してもらえないですか?」って言ったんです。そしたら、少し考えましょうという返事でした。

とりあえず主人を呼ぶことにしました。それで、主人に電話をして病名を言ったら、「あら、あら、はー、ちょっと待っとき」って。「えー」とかそういう驚き方じゃないんです。でも、なんかその言葉で私も少し落ち着いた感じで、それから主人がすぐに来てくれました。

病院は、二つの病院でスクラムを組んで話し合いながら、同じ指示をするからということで家から一番近い所で関西大の本院に入院が決まりました。

◇ 入院、そしてお助行 ◇

(診断があって)この子に入院しないといけないと言ったら、「パジャマも歯磨きセットも持ってきてないから今日は帰ったらダメなの?」って言うんです。「言ってることは分かるんだけど、今から違う病院に行って、そこの先生に明日でもいいよって言われたらいいけど、そうじゃなかったら、分かってるね」といったら納得をしたので、それで、とにかくすぐに紹介所を書いてもらって関西医大の方に走りました。

その途中、この子は今までお子様ランチとか食べたこと無かったんです。それで食べられる状況では無かったんですけど、主人がレストランに寄ってくれたんです。

私と主人の中ではこの子はもうこれで終わりなんだ。この子の命、もうこれで終わりなんだと思っていました。せめてお子様ランチだけでも食べさせてあげたくて。レストランに入って「お子様ランチ食べたことないし、食べよっかー?」って促したら、「うん!」というので、旗の付いたお子様ランチをほとんど食べることはできなかったんですけど頼んだんです。

それで、その旗をもらって、私も食べれない状態だったんですけど少し頼んで、3人で食べ初めたんです。そしたら、「お兄ちゃんも居たらいいのに」て言うんです。

編:その時のこととか覚えてる?

由:今のフォレストとかガストみたいな円卓っていうか・・・。結構いい椅子に座ってた様な感じがあります。茶色っぽい丸いテーブルだったと思うんです。会話とか、どんなお子様ランチかも覚えてないんですけど、その時の風景だけが写真のように断片的に残ってるだけですね。

幸:でもこの子はその時お兄ちゃんも一緒に居れたらいいのにねって・・・。その時お兄ちゃんは遠足だったんです。ちょうど遠足行ってて、「お兄ちゃんは遠足だからお母さんの作ったお弁当今頃食べてるから」ていいました。そして旗を持って病院へ行ったんです。

病院に着いて紹介書を渡して、この子こういうこと言ってるんですけども、「今日帰れますか?」って聞いたら、一回でも早く薬を入れた方がいいと言われました。この子も一緒に聞いていたので「わかった?」って聞いたら「うん」ということで、もうその日からこの子を置いてくることになったんです。

この子はすぐに納得して、ごねることもありませんでした。病室は、二人部屋に入ったんですけど、同じ歳の男の子がいました。

それで「明日、お母さんパジャマとか持ってくるしね。バイバイ」っていって帰ったんです。

この子は平気な顔してるけど、私は子離れできないでいました。主人に泣いてもしょうがない「前向きにいかなアカン!」と言われ、次の日お寺に来て報告させてもらったんです。

それで、こんなことで入院させて来たって報告したんです。その場には、薫奥さんと組長さん(当時池田雪江さん)がいらっしゃいました。

婦人会の何かがあって、組長さんもいらっしゃってそれで話を聞いて組どころじゃない。とにかくお助行!ということで婦人会、クンゲ会、クンゲ世話人会とお助行してくださいました。本当にお寺に行けばお助行いただきました。そして千羽鶴を作っていただいて、大切にしてた生地でリボンを造って、由乃の病院に千羽鶴と一緒に飾らしていただいたんです。とにかくみんなに応援してもらいました。

それで話を聞いて高岡きみさんが、すぐに私がいる時間に家に来てくださって一時間お看経。それから、高岡さんが朝参りしてお供水さんを持ってきてくださるんです。ずいぶんお歳だったと思うんですけど、重たかったと思います。

でも「由乃ちゃんに持って行って」と言って持ってきてくれました。この子はその頃ジュースとか病院のお茶とか来ますでしょ。でも全然そんなの頂かずにお供水だけ頂いてたんです。

「これは捨てたらいけないから、いろんなお世話の人が来るけども捨てられたら困るし、捨ててはいけないことをちゃんと伝えなさいよ」って言ってたんです。それで、この子も看護婦さんにちゃんと伝えてましたし「大切なお水だから絶対捨てられないお水なんで」と言ってました。懐中御本尊もしっかり下げて、時間のある時はとにかくお看経。リボン付けてもらった千羽鶴に書いてもらった色紙を拝むんです。病室で。かたくなにしっかり守りました。だから病院でも変わった5歳の子だったと思います。

◇ 検 査 ◇

由:普通、治療する時、子供が怖がるから当日に「採決するよ」て言って処置室に連れて行って検査したりするんです。でも、私はすごく怒ったらしいんです。その時は、骨に注射をするっていう検査でした。

編:すごく痛い治療ですよね。

幸:それでこの子は「何も言わないで検査する!」っていって暴れたんですって。私が行ったら看護婦さんに「今日は暴れて、全然検査ができなかった」といわれました。それで「そうだと思います。私の子にはちゃんといつするか言ってください。準備しますから」って言ったんです。それで「一週間ほど前に言ってもらったら準備しますから、その日は落ち着いて協力すると思います」て話しました。

それからは「いつ検査します」と言ってもらうようになりました。それで検査までに準備のお看経をするんです。高岡さんのお家で「とにかく検査がうまいこといくように」って。この子が協力しないことには、後が大変なんです。痛みが。だから、それの前にスムーズに行くように準備のお看経をさせてもらったんです。

そうして、次からしっかりと先生に協力するようになりました。痛くても、なんでもガマンする。御題目を唱えながらガマンする。それで、うまいこと検査もできる。だから、もう模範の5才の子。今までにない子だったみたいです。

結果的には(病院に)六ヶ月居たんです。本当は八ヶ月かかるって言われたんですけど、六ヶ月で第一段階の治療が終わって、その間でもういい子になっちゃった感じです。それに、いい結果が出たということで六ヶ月で退院できた。

もう家に帰って良いという結果が出たんです。私はお供水を運んで、こちらからも言いたいことを言いました。それで、しっかりと協力する気持ちと体制ができているので先生の見る目も違いました。

私は必ず結果を聞きに行く時、手帳を持って先生が言うことをみんな書きました。でないと(お助行者の)みんなに報告できない。

難しい言葉とか出てきたら解らないし書いたんです。だから、先生もやりにくかったと思います。この子も私も今までにないタイプだったみたいです。でも、病気に対して真っ向から向かって、もう逃げないっていう姿勢が見えていたんだと思います。

だから、先生方も看護婦さんも私がいない時でも一生懸命してくださったんです。三時から七時までしか面会できませんから、そういういない間もこの子の納得する対応をしてもらっていました。またそういうことを報告してくれていました。そうして、また私も体調を整えて行かせてもらってたし。だから「もう逃げない。もう負けない。絶対治る」っていう感じでした。でもその間に、いろいろなお友達が一人亡くなり、二人亡くなり、亡くなっていくんです。

編:同室の子がですか?

幸:同室じゃないんです。(病室は)多くても二人。ひどくなると一人ですから。クリーンルームっていって綺麗な部屋があるんです。ドアも一つドアじゃなくて、ひとつくぐってまたひとつ入るっていう感じで、一番いい部屋に入らせてもらったんです。小窓があって、すぐの処が詰め所なんで何があってもすぐに連絡ができるところに入らせてもらってたんです。

でも、何人も亡くなっていく中で(この子は)ドンドン元気になっていくじゃないですか。それで退院して、一年生に入学する時分になったんです。でも、その前に卒園式とかあって、卒園までに良い体制でいけたから、卒園式に出て良いということになったんです。でも、免疫はゼロに近いから、ここから出て卒園式するっていうことはとても無理で、園児たちと一緒にはできないということでした。

それで園児が午前中終って、午後幼稚園に連絡をとって、みんな帰った後、会場だけそのままにしてもらってたんです。

それで、園長先生とか職員の人達だけでこの子を迎えてくれて、一人だけの卒園式をしてくださったんです。その時、園長先生がずっと抱いていてくださったんです。

編:何か覚えてる。

由:それも断片写真のようにしか覚えていないんです。何をしゃべったとか、当時のことは全然覚えてなくって、断面を写真のように、その場その場がわかっていて覚えてるだけなんです。お母さんが居ない間の看護婦さんとのこととか同室の子のことか、何をしゃべったとか何をしたとかいうのは覚えてなくって、隣の子がチキンラーメン食べていたから美味しそうやなとか、そんなことしか覚えていないんです。それであと、クリーンルームの中から看護婦さんの仕事ぶりをジーッと観察してるとかそれ位しか覚えていないんです。だから、お看経をしていたとか、何を飲んでいたとかは全然覚えてなかったんです。

編:知ってる子達がいなくなっていくとかはわかってたん?

由:最初の頃に結構長く居る人とかが、髪の毛が無くなってる。スキンヘッド位になってる子が居て、自分の部屋から「何番目の子が亡くなったんだって」て言われても「ああそうなんだ」て感じだった記憶はありますね。その時は交流がなかったんで同室の子位しか知らなかったし、出ることもできなかったんで面会もできませんでした。お兄ちゃんも来ることができなかった。だから、親としか会ってなかったんです。

卒入学・学校生活のはじまり◇

幸:この子にとって私が毎日行かないと誰もいないんです。それに実家にも黙ってたんです。言えなかったです。

由:お婆ちゃんに言わないでっていったんです。

幸:それまで、よく電話かかって来てたんです。いつもこの子が出るじゃないですか、(長男と)離れてできていて、女の子でかわいい、かわいいなんです。そんなこともあってこの子も「言わないで」って言ってましたし、勿論私たちも言うつもりはありませんでした。

それで、とにかく(両親には)言わなくて、やれるだけやろうって。お兄ちゃんも中学生になってたから、「お兄ちゃんがんばり」っていってたんです。でなかったら誰か呼んでお兄ちゃんの世話もしてもらわないといけない。けど、「お兄ちゃん頑張れるね」っていってたんです。

長男も帰って来て誰もいない。私のメモ書きで「チンして」って置いてあるだけなんです。

それで塾へ行ってましたから、塾へ行って帰ってきても誰もいない。ホントにあの子は穴ぼっけの中に入れられたみたいな感じで。こっちも大変だったんだけど、あの子は精神的にすごくしんどかったと思うんです。

だから、たまに泣いている姿なんか見えていたんですけども、どうにもならない。その分頑張る他ない。本当にあの子にしたら何にも手に付かなかったと思うんです。勉強してても、何してても。私はもう由乃に付きっ切りでした。でもまたそれを見て、理解できるから、自分で頑張るしかなかったんですね。

それから由乃は、幼稚園の卒園式が終わって、今度は入学。入学にあたっても教育委員会に行って病気のことも話して相談させてもらいました。

小学校はお兄ちゃんが卒業した小学校で校長先生とか、担任の先生にお話しして「じゃあ、体制を整えて入学式をしましょう」となりました。それで、ばっちり体制を組んでもらって、その場で「担任の先生も決めましょう。この先生だったら大丈夫でしょう」ということで、校長先生に選んでもらって、体制を組んだんです。保健の先生が一人横についてもらって、本当に良くしてもらったんです。

幼稚園もそうですけど、小学校でも本当に良くしてもらったんです。でも、あんまり学校いけないんですね。すぐにしんどくなっちゃうから。普通は登校班で行くんだけどそれは免除してもらって私が鞄をもって後で送っていく。

それでまた2〜3時間したらまた私が迎えに行ってという風に少しずつなじんむようにと思ってたんです。

そんな心配の中この子は心の豊かな子に育ってくれたと思います。色々お稽古してたんですけど、病気で全部ストップ。何にもできないでしょ。だから、口だけは何でも言って良いっていったんです。何処行っても「そんなこと言っちゃダメ」ってそういうことを言わなかった。何処でも、どんな偉い先生の前でも何でも言って良いって言いました。ただ、「由乃が言ったことが本当に間違ってたら、ごめんなさいって言える子でいてね。それだけ約束しようね。それができるんだったら何でも言っていい」って強調して言ったんです。それで、躊躇しないで何でもいう。それで、なんて言うか心が豊か、悪く言えば生意気になっていったのかもしれません。何でも言っちゃう。言っても許されるみたいな感じで。それでカツラかぶって学校の教室入っていっても堂々としていました。この子は。

由:マスクして行ってたんですよ。自分的にはすごく嫌だったんですけど、でも「何が悪いねん!」って感じですね。

幸:それで家帰ってくるとね、みんな遊びに来るんですよ。珍しい子だから。学校で先生も、由乃ちゃんは病気で運動できないし、教室だけだけどもみんな仲良くしてね。みたいなことを言ってくれてたもんだから、みんな遊びに来るんですよ、家に。外で遊べないんだからっていう感じで。でも家の中ではこの子は、カツラをとってるじゃないですか。で家に居る時はナイトャップみたいなのを付けてるんです。それを一杯作ってあげたんです。そうすると家に来るとまた違う感じがするんでしょうね。その内それもとっちゃってね。ほな、言う子がいるんです。「由乃ちゃんどうしちゃったの?髪の毛」って。じゃあねこの子が、「病院でほしいって言う子がいるからあげてきたの」って、そう言ったていうんですよ。それでそれから、ちょぼちょぼって髪の毛がはえてきてからはカツラもかぶっていきませんでした。

本当に心豊かに育ってくれて御宝前のお陰だと思っているんです。もう何も怖くないって感じでした。

◇ 再 発 ◇

編:退院してからも、お助行は続けて居られたんですか?

幸:お助行はね、世話人会とかでしていただいてたんですけど、6ヶ月の入院の後はそんなになかったんですけどね。高岡のお婆ちゃんはずっと応援してくれてたんです。毎日じゃないですけども、ことある毎に応援してくれてたんです。

最初のお助行が、結果に来てるでしょ。それで私たちの気持ちも大きくなりました。これだけ応援してもらってる!という感じで。もう夢中でしたね。面会も私が風邪をひいたら行けないじゃないですか、誰も行く人がいないでしょ。

この子は時計持って待ってるんですよ。一分でも遅れたら遅刻っていわれるしね。だから、必ず行かなきゃならない、っていうことは風邪ひけない。だから、風邪ひかなかったですね。調度、冬場だったけれども。風邪ひかずに一日も休まずにいけましたね。これもみんなお護りいただいてたんですね。

由:私は病院食が嫌いだったんです。朝は絶対クロワッサンとかで、すっごく胃がもたれて、すっごく気持ち悪くて、お母さんにお弁当を持ってきてもらっていて、お茶もいやだった時があって、牛乳とかも「ウワー、気持ち悪い」って時もあったんですけど、そんな時にお供水さんがあったから脱水症状もなかった。

お供水さんがあったから、飲めた。頂けたって感じですね。その時は気づかなかったけど、スッーと頂けてたんです。

幸:それで三年生になって、三学期に再発したんです。その時はホントに微々たる再発なんだけども「今叩いておけば」って言われました。

再発で、入院するっていう時、「がんばってきてね」っていう会をクラスで開いてくれるんです。それで「がんばってね。頑張って帰ってきてね」っていってくれるんです。その時も6ヶ月だったかな。とにかく毎日お手紙。加名田さんのお孫さんの酒井君。彼の書く手紙がおもしろいことばっかり書いてくれてね。すっごい楽しみにしてたんです。私は覚えてるんですけど、寄せ書きやらお手紙やら、毎日のように先生が配慮してくれてたんです。この子の周りはみんな応援してくれてた。それがとにかく嬉しくて。

編:でも、そういうこともこちらが縁っていうんでしょうか。こちらから発信しているから伝わっていく。みんなが心遣いをしてくれるんですよね。

幸:校長先生が配慮してくださってたんですけど、この先生なら大丈夫だろうっていう風に選んでくださっていて、先生にすごく恵まれていました。でもそれは、お兄ちゃんが小学校もしっかりと行ってくれてたのがこの人に徳が来たんだと思うんです。だから、お兄ちゃんにも有難うっていう感じです。お兄ちゃんが良い種を蒔いてくれてたっていうことで、千葉君の妹かっていう感じでね。

本当に遠い処からですけど、ぐるーっとまわって護ってくださったんだと思います。

◇ 選 択 ◇

幸:それで、この子に病名を言ったのが、6年生の夏休み。「ちょっとここに座って」っていって御宝前の前に座らせて「実は由乃はこういう病名なんだ」っていったんです。

じゃあこの子が、「やっぱりね」って。

「わかってた。でも悔しい」ってそれでもう大泣きしたんです。でも、ここまで来れたのも御法様がお護りしてくださって、みんなのお陰でここまで来れたって言うのも話したんです。

由:言われたのが御宝前の前だったんです。

幸:それから、自分はこの後大きくなったらどうやって暮らして行けばいいのかって考えたらしいんです。

それで、ある時に「お母さん」って言ってオーディションの紙を持ってきてね。「これね。第二次審査は保護者がいないと無理なんだって」って持ってきたんですね。「何それっ」て聞いたんです。じゃあ、「これね、大きくなってね、体がダメでも声優だったら自分で暮らしていけると思って応募してみたら第一次審査受かってね、第二次審査これ保護者が居なかったらダメだって通知が来たから一緒に来てちょうだい」っていうんですよ。その時、この子6年生で近くの中学校は男の子もいるし、体的に男の子もいたらかわいそうかなって感じでどこか入れる処があればと思って、お兄ちゃんに家庭教師してもらって中学を受験しようと思って勉強していた時だったんです。そんな時に「あんたちょっと待って。あと二ヶ月で中学受験始まるっ」ていうて、「二ヶ月か三ヶ月で受験始まるのわかってる?」て聞いたら「わかってるっ」ていうんです。でも、「私はこういう考えでやってみたい」というんです。お父さんとお兄ちゃんは「お母さん付いていってあげ。そこ行ってダメだったら納得するから、ついて行ってあげれば」て言われたんです。それで私はそういうの嫌いだけど、付いていったんです。

じゃあ、六百人七百人といるんですよ。そうしたらこの子、チャッチャ、チャッチャと受付済ませてくるんです。私は、「待ってて」といわれたんで隅っこの方で待ってて、なんかもらってきては、呼ばれるんです。オーディションで、声楽の先生やら踊りの先生やらが一杯来ているんです。

それで、呼ばれてはなんかして、こと細かに何か聞かれては帰ってくるんです。即興的な紙ももらってきていました。最後に呼ばれたのは「今日の結果の有無は一週間後に行きます」って呼ばれていったんです。もうダメだなと思って帰ってきたんです。

そうしたら、一週間後に合格の通知が来た。でも私は、「それをして行くには大阪だし、中学校行ったら京都だし」と思って家族会議を開いたんです。それで、「やらせてあげればいいやん」ということになって手続きしたんです。

中学も何ヶ月後かに受験して、またそれも受かったじゃないですか。それで、「どうする」って聞いたら「やる!」っていうんです。「まあ」と思ったんですけど、この人はもう6年生。

私が(病名を)いった時にはもう薬も全部なくなって、お供水さんだけになったんです。

そういうことで良いかと思ってレッスン始めたんだけど、朝は学校行く時に駅まで送るけど後は一人で行って、帰りは一人で帰ってくる。それ約束。お稽古の日は一人で行く。絶対付いていかない。あんたがやるって決めたからって約束したんです。

由:小学校の時、一・二回付いてきてくれたんですけど、後は反対にもういいって言いました。

幸:付いていったのは、どんなことをするのかと思ったんです。足もまだまだしっかりしていない。それなのに言われたのがジャズダンスと日舞と言われたんです。それをどうやってこなして行くのかなって思って見たかったんです。

由:小学校の時は抵抗力がなかったので、体育の授業を全くしていなかったんです。

幸:でも、見てみたらジャズダンスもストレッチから入るんです。ゆっくりとした。それで、この子に調度良いわと思ったんです。何にもしていなかったから。体がなじんできたところで少しずつリズムに乗って動く。フルートもやっていたし、音楽も聴いていたしリズムはあったんです。上手に乗ってるから、これは無理なくできるなと思いました。日舞はあんまり心配しなかったんです。ゆっくりだし。御題目唱えながらやったら良いんだって感じで。それは心配なかったんです。しゃべりも心配しなかった。しゃべっていいっていっていたから。だから、これは心配しなくてもいいかなって思って、それにこの子も来るなっていうし。だから、何処へ行くのも一人。全部一人でやらせました。それで今に至っているという感じです。どこかで撮影があるって行っても一人。絶対ついて行きませんでした。

◇ 恩 返 し ◇

この子が言ったのは、一杯いろんな人に応援してもらった。それで、今元気なりましたよって姿を見てもらうのに唄とか、テレビなんかでもちょっとでも出てたら、仙台の人なんかでも由乃が出てる。元気にしてるってそういう風に元気な姿を見てもらうのが私の恩返しっていうことを言うたんです。

ああそうか。と思って、それがとても良いことと思って、毎年の舞台にみんな声をかけさせてもらってたんです。でも、お金すごい懸かるんです。公演のチケット買い取って、それでみんなに見てもらおうと思って、「遠くて交通費掛かるんですけど見に来てください」っていって見てもらったんです。だから、「お父さんに感謝しないけないよ」といってました。

お父さんもこの子の気持ちが分かるから「見てもらって恩返しができたら」っていってさせてもらってきたんです。この子の心を受けて僕らが応援しないといけないって。

それで、この子の収入もほとんどないんですけどね。撮影にもいけば少しでももらえるんですけどお金にもならないんです。でも、そういうお金を三回の御会式がある中に家族でご有志させてもらうっていう形にしているんです。

ホントに少ないんですけど、家族でさせてもらってるんです。

だから、本当に元気になりました。二十歳までは病院も付いて行ってました。主人には何にもなくても付いて行けっていわれて。でも二十歳過ぎたら一人で行くようになりました。でも、次の月には私が一人で行って先生に話を聞いたりするんですけど。

それに、話が前後するんですけど由乃には先生二人ついてくれていたんです。今は一人なんですけど、二人とも舞台も見に来てくれていました。だから、病院行くのも近況報告っていうか、どこがしんどいとかじゃないんです。本当に賑やかな診察で「今は何してる」「こんなことしてる」「じゃあいつまでに英検三級とって来い」とかね。「お前だったらできる」とか。

オランダ行く時も、「大丈夫だ。行ける」って言ってくれて薬も調合して、「お腹痛くなったらこれを飲め。こういう風になったらこれを飲め」って言ってくれて。とにかくすっごい応援してくれて、「由乃だったらできるから大丈夫」っていってくれてました。

由:そんな先生のことなんですけど、小学校三年生の時に、お供水さんを毎日二リットル頂いていたんです。それで、たまに自分で(尿を)捨てにいける時があって、そんな時その先生だとか、看護婦さんとかが「多いよな。記録的やで」っていってくれたんです。それで「よし頑張るぞ」って思ってましたね。ホントに一杯なんです。お供水さん頂かせてもらってたんでみんな黄色いんですけど、私だけ透明でしたしね。

それに、小学校三年生の時に、相部屋で寝ていた子が便秘で、薬のせいでウンコがでなくて浣腸するということになったんです。浣腸ってむっちゃしんどいんですよ。それで、下剤入れてもすぐにだしそうになるから、頑張らないといけないんです。

だから「頑張れ、頑張れ、南無妙法蓮華経って言ったら耐えれるから」って言ったんですね。

そんなことを言ってる自分が居て、普通に考えたらおもしろいこと言ってるなと思って、他宗というか、全然関係ないのに、素でそういうことをいうことが言えた。その先生とかが普通に「これなんて言う?」のとか聞いてくれていたんで、素でそういう言葉が出たんだと思います。

幸:本当にお供水さんと御題目で助けてもらった。結局みんな死んでいきました。この子くらいで、一人今も行き来している子がいますけど、どこかおかしいんですね。本当に、どんどん亡くなっていってたんです。でもその時は、この子は大丈夫。私が守るって思ってました。

由:自分の中では、高岡のお婆ちゃんは怖いというか、近寄り難い存在でした。高岡さん家に行くのは好きだけど怖いみたいな感じです。

薫お婆ちゃんも怖かったんですよ。でも本当にかわいがってもらったんです。でも、しゃべって良いのか、ダメなのか迷って、どうしようみたいな感じでしたけど。

編:薫奥様が亡くなった時、形見のモノないですかって言ってたよね。

幸:もらいましたよ。ブローチとね。

この子が、こんなんでしょう。寒参詣でも、由乃が行くと、声をかけてくれてるんです。ご信者さんでも同級生の子なんかが一杯居たんですけどなんか違うんですよね。そんな感じがして。この子が病気になった時、奥様倒れたじゃないですか。血圧が上がって。そんなこともあったしね。口では言えないものがありますね。

編:高岡さんにしろ、薫奥様にしろ、みんなの懐に入ってきて、関わって、ご信心伝えてくださってる。すごいですよね。

幸:だから、頑張らなくっちゃって思いますよね。負けないっていう気持ちになってきますね。

編:そういう人が周りにいるって言うことがまず心強いですね。

幸:今も、私はこの子の話をいろんな人にさせてもらうんです。ある人が落ち込んでたりして話したら、「そういう人がいるんだったら頑張らなくっちゃ」ていう気持ちになってくれる人が何人もいるんです。

今は何も名前も知られてないけど「舞台女優というか、舞台に出たりしているんですよ」て言うんです。

でも、そういう風に舞台に立ったりしているのは、「皆さんにこれだけ元気になりましたよ」っていう姿を見てもらいたい。今この人がやっていることはそういうことなんですね。

背が小さいのもすごく悩んだ時期があったんですって、でも今は背の小さいのを武器にしているんです。

編:こういうお話は、たくさんの人の支えになります。発信する場は最前線で頑張ってくれてるし、これからは、自分自身の中のご信心も磨いてもらってもらいたいと思います。

僕らは、ついうっかりということがあるからお参詣も御奉公も頑張ってもらいたいと思います。今日は長い時間ありがとうございました。