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初入真道栞(しょにゅうしんどうかん)

尼崎門流持経者_______
本門佛立講最初長松堂謹記_

 

◆御指南原文 ◆解 説
(前文)
この書、朝毎に心を慎み、一度ずつよみ習わしめて、忘れ難くすべし。然(しか)らずば心ゆるみて怠るべし。迷いに馴れし心の癖(くせ)を止め得て、菩提を成ぜよ。

 
この書き物は、はじめて真実の道、本門佛立の菩薩の道に入るものに対して、目標となる道しるべ(栞:しおり)であり、こころを落ち着けて、一度最初から最後まで一通り読み、常に心に念じ忘れないようにしなさい。そうでないと、人間本来持っている怠け心が起こり、嫌になるものです。せっかく良い物を持っていても、身につけようとしなければ、却って迷いの心に慣れ親しんでしまい、誤った価値判断をもつものです。人間として、なぜ仏教を学ぶのか、特になぜ本門の教えでなければならないのかを考えなさい。そして人間として常に向上心を持って生きていきなさい。

仮字(かな)に、かなをつくるは煩わしけれど初学の子らをして。草字(そうじ)、万葉仮字(まんようがな)をもしらしめんと思う老婆心のみ。

ひらがなやカタカナを同時に使っているので、読むときに煩わしいと感じるとは思うけれど、日本の言葉を趣や深さを学ぶためのものであり、万葉時代から使われるものを含めてあるのです。楷書や行書、草書などのことも同じです。言葉を簡単に覚えるとかえって自身の心を表現できにくくなり、伝えたいことが伝えられない苦しみを持たないようにとの親心です。
(編註:原文ではカタカナやふりがなを使われていますが、ここでは新字体を使い、現代仮名づかいに変え、送りがなを付けさせていただきました)
この書を写し持ちたらば、うち寄り、よみ合いて、心底を清むべし。

この書き物を写したりしながら、共に行学の仲間同士で心根を清らかにするために励み合いなさい。


 

初入真道栞

 

 

始めて真実の道、本門佛立の菩薩の道に入った者に対する道しるべ。

 

釈尊出世の本懐、本門法華経滅後末法流通正意、上行後身、蓮師御弘通神力付属、本因妙下種の大法を信行せんと思う輩(ともがら)、初めに心得置くべきことをあかすべし。常によみおきて、この大事を忘るゝことなかれ。

結論から言えば、お釈迦様がこの世にお出ましになった理由とは何なのかということをしっかりと弁えなければならないのです。そしてそれは、本門法華経のためであり、御題目のご信心のためであり、仏さまが亡くなられた後の二千年以上も経過した人たちに、真実の教えを説くためなのです。その教えが「本門八品所顕、上行所伝、本因下種の南無妙法蓮華経」であり、それを広められる菩薩の御名を上行菩薩といい、わが高祖日蓮大士のことです。このことを心の奥底に刻みつけんがために、これらのことを学ぶのです。そして学ぶための心得もあわせて記しておいたのです。だから、常にこの書を読み、忘れないようにしなければなりません。

そもそも、お釈迦様がこの世にお出ましになられた意味を知らなければなりません。大半の人は、ただ、古代インドにおいて父スッドダナーと母マヤの間に生まれ、名前をゴーダマ=シッタールターといい、当時バラモンと呼ばれていた人たちと共にバニヤンの林等で難行苦行の末に目覚めた人(真理を悟った人)になられ、その説かれた教えが世界中に広まったというのが仏教だと思っています。しかし、実はそれだけではないのです。

仏様の教えは、人間が一日に動かす心の数だけ教えがあるといわれています。人間にとって本来の苦しみとは何か? それはどうして起こってくるものなのか? その苦しみを取り除くための方法はあるのか? その苦しみを取り除くことは具体的にどのようにするのか? ということを悟られたのです。だからその教えの数は膨大なものであり、また、苦しんでいる人たちの考え方も様々です。苦しみを感じる人の心、苦しみを取り除こうとする人の心、その両方の心の数だけ教えがあるのです。だから、仏教の教えの数は八万四千とか八億四千あるといわれているのです。しかし、それのみだけでなく、永遠に続くこうした苦しみの連鎖のあり方に対しての教えもあるです。そしてそれから開放される方法も説かれているのです。

その教えには、縦の教えと横の教えとがあります。まず、縦の教えとは、時間的経過を中心にして説かれる教えのことです。例えば、私たちが親からものを教わるとき、まずはじめは言葉そのものも知らないので、より簡単な音で意味合いの少ない言葉を選び、物事を伝えることと同じです(ご飯・食事のことをマンマなどと使う)。しかし小さい時に教わるものも、教わる子供が成長すれば言葉が変わり、内容もより高度になるのです。つまり教えに濃淡があるということです。こうした時間軸を中心にして教えられるものをまとめると五つの時期になるのです。この五つの時期の教えをまたさらに細かく仏さまは分別を試みられ、またそれぞれの時期での人々の心の状態をも考慮されて教えを残されたのです。

次に横の教えとは、仏さまの教えを学ぶ人たちが同じ時間に聞きき、同じ年齢であれば問題ないのですが、現在でいえば、大学生と小学生、はたまた幼稚園の園児まで机を並べて学ぶのですから、幼稚園から大学までに通じる教えがあります。こうした教えを横の教えというのです。言い換えれば、教えを受けられる人々の心の状態からみた教えのことです。

この横の教えは全部で八種類あります。先ほどの縦の五つの時期と横の人々の心を全部合わせたものが仏教、仏さまの教えとなるのです。

さて、その仏さまの教えの要点をかいつまんで見ると、人間としてこの地球上に存在するということを、まずしっかりと教えられるのです。その真理が四つあります。文字で見てみると、苦・集・滅・道です。これを四つの真理の言葉というところから、四諦(四つをあきらかにする)と呼ぶのです。

この四つの真理が全てであり、これが一個の人間の上で起こる状態の全てです。その四諦に四つあり、まず、一個の人間がこの世に生まれて死ぬという時間の中で起こる真理の状態、四諦があります。また、不特定多数の人間に存在する共通項としての四諦。それから人間が感覚として第三者的にみて存在が確認できる四諦。それと私達の思惑の外にあり、感覚としても捉えられない四諦があるのです。(人間が理解出来ようが、出来まいが存在している法としての四諦。これが仏様が悟られた側にある四諦で、将来において悟ろうとして目指す真理のことを指します)この四つの四諦が仏さまの教えなのです。

この四諦の順序を時間的、縦の軸として配列すると、華厳(けごん)の時、阿含(あごん)の時、方等(ほうどう)の時、般若(はんにゃ)の時、法華(ほっけ)・涅槃(ねはん)の時といいます。

仏さまは、縦の時間軸を中心にすることに重きを置かれ、そして横の軸を教えられたのです。この縦と横のことを物事の経緯(縦の経度と横の緯度というのと同じ)といい、インド語でスートラというのです。縦を中心とするから教えを「経(きょう)」というのです。

つまり、時間的経過の最後である法華・涅槃の教えが一番濃度の濃い教えであり、その味わいを醍醐味(だいごみ)というのです。なお、その醍醐味もさらに、前半部分と後半部分では、教えを説かれる仏さまの身分も違い、その教えを受けられる人々も違うのです。

その時代を分けると、一つは、仏さまと同時代の方々に対する教えと、仏さまを知らない、つまり仏さまが亡くなられてから人間としてこの地球上に誕生する人々に対する教えとに分けることができます。もっと細かくみてみると、仏ご自身が入滅された後の、仏さまに憧れる人々を五百年ごと五回に振り分け、最後の五百年からが、人々の心は善悪に乱れ、混沌とした時代になると説かれ、そうした人々にも仏さまは教えを残されたのです。それら全ての人々に対しての救いの教えを説かれたのが仏教です。つまり、仏さまは、悟りという観点に立って教えを聞く人々の心根(機根という)を分別され、さらに、その心根(求めている心に)に合わせて教えを説かれたのです。そして人々が段々に真理へと近づけるようにと(真理を悟る=成仏)導かれるのです。しかし、導かれる人々の能力は様々なために、教えは人々の心の数だけあるともいわれているのです。それらの教えは、全て教えを受ける人々に合わせているのですから、「随他意(聞く側の意に随う)の教え」といい、真理を説かれる仏さまの意(こころ)とは大きくかけ離れているのです。これらの教えとは反対に仏さま自らの経験と悟られた教えを説かれること、すなわち、仏さまご自身の意を説かれたのが「随自意の教え」というのです。仏さまの教えは、この随他意、随自意とに分けることができ、法華経までの教えは、すべて随他意といい、法華経は、ご自身の成仏の原因を説かれたので、随自意というのです。これが仏さまの側に立って見た場合にご自身が最初から思われていたことなので、仏さまの本懐(ほんがい)、つまり「釈尊出世の本懐」というのです。しかし、出世の本懐たる教えにも、その前半と後半とでは、その内容は大きく違い、助ける人々の性質も違うのです。すなわち、釈尊がおられた時と、御入滅以後とで、教えを頂く人々の心根が大きく違うのであり、また、仏さまがこの世に存在されないのですから、その教えを伝える人々、導かれる人々が違うというのです。現在は仏さまが存在しておられない時代ですから「滅後」といい、仏さまが滅っせられた時代というのです。その滅後でも、人間の心の状態の変遷が五百年のサイクルで変わってくると教えられたのです。その五百年を五回数えた時代以降が最も心根が悪い人々が生まれる時代といわれ、それを末法というのです。

その末法という時代のために用意された教えである法華経が説かれる中で、上行菩薩を始めとする数限りない菩薩方が登場します。その菩薩方は、法華経をお説きになっている仏さま(この仏さまを久遠の本仏、略して本仏という)から教導(化導ともいう)されるので、本仏から化導された菩薩、本化の菩薩衆といいます。大略すれば、末法という時代に仏さま(久遠の本仏)から一切の人間を救い尽くしなさいと命令を受けた菩薩が、人間界では日蓮と名乗られたのです。しかしその本当の身(本身)は上行菩薩ですから、上行後身というのです。その上行菩薩は、法華経の神力品において、仏さまから命令を受けられるのです。これを仏教では付属といい、これを略して神力別付といいます。仏道修行を因果でいうと、仏さまは結果であり、それを本果といい、その結果に至るために修行をする菩薩は、結果を導く原因ですから、本因と表現するのです。これが妙法という悟りの中心に展開されるから、本果妙と本因妙といいます。仏道修行の状態を作物の移り変わりに喩えて、まず種を植える状態を下種(種を下す)といい、その下された種が熟成して、最後に悟りに至る。これは人間の持つ一切の苦しみから抜け出した状態ですので、解脱というのです。その始めは、仏道修行を志して、始めて仏さまの悟りである御題目を自分の心の奥底に入れること、つまり、心に御題目を入れることを下種というのです。

その尊い修行を始めようとする人たちに、必ず心得なければならにことを、今ここに明らかにするのです。

まず、生れ難き人身を得たるを歓ぶべし。三悪四趣を免れ、人界に出ること、爪上(そうじょう)の土の如く、人身(にんしん)をいたづらにして悪道に堕せんこと、十方の土のごとしと、仏、説かせ給えり。また、人身を得ずば仏法にあう便りなし。

まず私たちは、この地球上において人間として誕生しました。人間の誕生に関しては現在の自然科学において究明されつつありますが実際のところはほんの一部分しか理解されていません。この地球上では、人間だけでなく、様々な生命が共存しており、それぞれが自然の法則に逆らうことなく生きているのです。しかし、人間はこの地球上に誕生以来、様々な変化(進化)をしてきました。地球にある物質を元にして形成される生命体の一つとして生きていますが、その特性は、他の生命までも凌駕し、万物の霊長として地球上に君臨しているのです。そして人間は、この地球上において善悪どちらにもなれるのです。良くなることも、悪くなることもあります。しかし、人間以外の生命は、本能を中心としてしか生命の維持ができないのです。その生命を理解し、この地球上において、そのバランスを守ることも、破壊することもできるようになったのが人間です。この宇宙全体のバランスの上から、自分自身を振り返られるのが人間のすばらしさです。その人間としてこの世に生を受けたというかけがえのないことを自覚することが大事です。それこそが人間の最大の課題なのです。その喜びを忘れないことが人間の条件なのです。

次にこの地球上の人間以外の生命体に目をやると、人間が自分の器官を使って認識できる世界と、認識できない世界があるというのです。またそれに自分の心の世界もあるから、目に見えた世界を色(対象とするものが確認できることを色という)世界と、確認できない無色の世界、そして心(心の構成要素を五つとするので五薀(ごおん)という)の世界とがあります。また、その世界(宇宙全体のこと)に過去において生きた生命から今生きて生活している生命、そしてこれから生まれてくるであろう生命を含めてこの宇宙なのです。生きている生命だけのものでも無く、数限りないこの地球上にて繰り返されて来た、生命の生滅、生きて滅びるという法則の中で存在した全てが仏さまの言われる「宇宙」なのです。その宇宙を特性の上からまとめてみると、十界になるのです。細かいことは追々学ぶものです。その十界の中では、人間はほぼ真ん中にあたるが、本来人間が持ち合わせている心の中でも悪心といわれる心が作る世界(宇宙)が三つあるところから、そうした世界を三悪といい、他の生命との共存の中において攻撃性の心を含めて四つの心が向かう(これを趣く(おもむく)という)のですから四趣というのです。しかし、人間であればこの四つの外に常に正しいことを求めようとする心や、他の生命に役に立とうろする心があるのです。その決定権は自分自身にあるという喜びを知ることが大事です。

こう考えれば、人間が人間として生まれあわせる確立は非常に少ないことが分かるのです。そのことを、地球上にある砂の数と比べて爪の上に載せた砂の数ほどとして、「爪上の土(そうじょうのど)」というのです。

そのことを理解しようとせず、他の動物と同じような生命維持しかできないで命の終焉を迎えた人々も多くあったのです。そうした人間世界の中で、この宇宙の法則を知る(これを悟りという)ことができた人間が、かの仏陀(ぶっだ)なのです。その仏陀の教えに遭遇することが、人間が人間として生きる価値ともなるのです。しかし、これにも因果の道理がありますので、三悪や四趣だけの心しか持っていない人間は、正しい仏陀の教えに巡り会うことができないのです。

人身は得るとも、仏法にあい難し。仏法にあわされば、父母師主の真実の恩を報ずることもしらず、牛馬(ぎゅうば)畜生にも同じく、いたずらに生まれ、いたずらに死して、生死のよしもしらざるもの也。

せっかく人間として、この地球上に誕生できたのにも関わらず、仏さまの教えに巡り会えなければ、人間であって人間でなく、ただこの地球上の生命というだけでしかないという悲しいものです。その生命を生み出す側に父性と母性があります。父性とは時間的経過の中の縦糸であり、母性と横糸と見ることができるのです。そしてこの世界を判断するのは自己であり、その自己は、自分が見ている世界の主観者(主人)です。こうした関係が判らないものは、自身の中にある動物として本能のみの行動となり、この地球上に住む生物の域をでないものです。そうした生死を繰り返すだけでは、人間ではなく、単なるほ乳類、霊長目類のヒト科の生物であり、真実の人間誕生の所以も知らない人です。生物としての人が、真実の仏と真実の教えに会うことによってのみ人間になることができるのです。

また仏法にあうとも、正法にあい難し。正法に値うとも、正師にはあい難し。

仏さまのい教えに巡り会うことは、千中一の希少価値のものです。そしてさらに、もし会えたとしても、真実の教えに会うことは、さらに難しいのです。まして、正しく仏さまのみ教えを正しく伝えられる人々(法師)に会うことはさらに難しい。それは、求める側の人間が自分のことしか考えないからで、救われたいと願うのみで、教えを求め、真実を求めようとしないからなのです。

今、値い難き中のあいがたき法華本門の弘まらせ給う国に生まれ、時にあい、その上、本法下種の大導師日蓮大士の出世の御本意、流通の一段、末法の明鏡たる、本門の肝心、八品所顕上行所伝本因下種の要法、熟益過時の権宗、去年の暦たる迹門宗、脱益法華の隣家の財を数る余門流に分絶えたる、

そんな中において、今日本国という仏教の中の真髄の教えである本門法華経のお広まりになっている国に、仏さまの真実の御弟子がこの地球上で活躍されている時に生まれることができたのです。しかし、私たちが心の奥底に仏さまの種を頂かないで仏道修行をしても、最終結果は得られません。仏道修行の最初は、まず完成された人間になるための種を心に頂くことから始まるのです。ちょうどそれは、種を植えなければ作物が得られないのと同じです。そして、この種を真実の仏さまから今に生きる人たちに橋渡しされることをご自身の一生の使命として生きられたのが高祖日蓮大士(大菩薩という意味)です。そしてこの日蓮大士がお伝えくだされた、仏さまからの御利益を私たちの住む世界に流し通わせるためにの一段こそ、私たちの心の鏡となるのです。それは、仏教の中でも法華経、法華経の中でも上行菩薩が聴聞なされた教え、つまり本門八品に明かされた教えのことです。すなわち、一切の人々の心の奥底に仏さまの種を頂く教え、仏の教えのエキスが凝縮された教えなのです。この教えを人々に伝えるためにあるのが、その他の仏教なのです。作物が種を蒔き、肥料を与え、最後に最高の果実を結ぶのに喩えられる教えなのです。

仏さまの教えには、真実の教えを知らせるための喩えとして存在するものがあるのです。私たちは、何事であっても比較対照をしなければ物事を認識できません。ですから、真実そのものの他にその真実を知らせるためのものが必要になるのです。これを「仮(権)の教え」というのです。そんれを夢にも知らないというのは、まことに悲しいものです。幸いかな私たちは、この仏教の真髄たる、上行菩薩から教えていただくみ教えにご縁があったのです。この教えから見れば、仮の教えというものは、たとえ同じ法華経を基本にしているものでも、去年のカンレンダー(暦:こよみ)と同じようなものです。暦は人間が生活させていただく中で、よりよい協同生活や習慣・風習などを読みとるものですから、一人一人の人間が違う暦を使っていては協同生活の役に立ちません。言い換えれば、人間がこの世で生活する指針としてあるのが暦です。仏さまの教えも同様であり、人間が生老病死の変化の中で生きていく上での指針となるものなのです。その指針が古いものであれば、使い物にならない去年のカレンダーと同じということになるのです。同じ法華経の流れを頂く宗派であっても、法華経の前半分を中心として修行をする人たちを迹門宗ともいい、上行菩薩に託された教えを本門の教えというのです。法華経の教えには、この二筋の修行があり、間違ってはいけません。

像門再興日隆聖人の本門八品門流に値い奉りし信者の面々。三界流転無始已来、今生人身を得たるの思い出これ也。正像二千年の大王よりも、小乗権大乗、法華迹門等を持ち、諸宗余門の祖師碩学(せきがく)といはれんよりも、この本門法華経の肝心寿量、寿量品の肝心末法下種、八品流通上行所伝の南無妙法蓮華経宗に値い奉れることを、返々(かえすがえす)も心腑(しんぷ)に染めてよろこびうやまい崇(あが)め尊び、忘るゝ間なく思い奉るべきなり。

さて、日蓮大士のお弟子の中でも、師僧仕え第一として修行された方が日朗聖人です。その日朗聖人のお弟子が、高祖大士がご入滅の枕べで京都で御題目を広めるようにご命令を受けられた日像聖人です。また、日像聖人より数えて六代後に出られたのが日隆聖人です。日隆聖人は、日蓮大士以来の尊い教えを、後に継いだ人々が各々勝手に教え自分の都合の良いように教えを歪めてしまったものをもとの清らかな教えに戻すべくこの世にお出ましになられました。そして日隆聖人は、法華経の中でも真実の本門とは、従地涌出品(第15章)から属累品(第22章)までの八品(章)であると明確に教えてくだされたのです。ですから日隆聖人のことを八品門流の祖というのであり、尊称して門祖日隆聖人と申し上げるのです。そして今生において、その教えの流れを頂けたご信者は、永遠の過去から自分の運命(業)によって左右され、生まれ変わり死に変わりして来た迷いの生活から、このたび真実の教えである本門八品上行所伝の御題目のご信心に会うことができたのです。人間であるからこそ、ご信心をさせていただくことができ、人間本来の生きて行く価値も感得できるのです。これこそ人間としての想い出作りなのです。真実の教えの由来を知らない過去の多くの仏教の祖師といわれている人々と比較しても、上行所伝の御題目を護持する人の方が仏さま(完成された人間)に近いのです。そのことを常に忘れず、自分の心の奥底に染め付けることが大事です。

この大法を受持せんものは、三途に恐れなく、八難に憚(はばか)りなし。釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。されば自然に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給う。四大菩薩、この人を守護し給い、天龍八部諸大菩薩は、眷属とならせ給うこと疑いなし。行者名字の幼稚なれば也。

今、この上行所伝の御題目のご信心をさせていただける人は、色々な災難を逃れる御利益を頂くことができるのです。そもそも人間が一日の命をつなぐのに、必要悪としてかも知れませんが、多くの動植物の命を搾取する以外に命を繋ぐ術がありません。この人間の一生を因果の道理に照らしてみれば、自身の心が未来を作るのですから、必然としてその果報が尽きれば決して良い結果は得られないことは当然です。そうした人間の行き着く先は、地獄界か餓鬼界か畜生界(動物世界)の三つ(三途)しかありません。しかしご信心に出会い、菩薩の修行をされた人は、三途に行くことはないのです。あの素晴らしく尊い人間、仏陀がこの世の中で修行された全ての原因と結果の果報は、すべて妙法の御題目の中に納められていると教えていただくのです。その功徳の全てを御題目に包まれた釈尊は、この御題目をご自身の一番弟子である、上行菩薩に代表される四人の尊い菩薩に渡されたのです。この御題目を頂くものは、その全ての功徳を同時に頂くのであり、その功徳により、様々な菩薩や神々が、私たちの家族眷属ともなって守ってくださるのです。

高祖曰(のたまわ)く、この度法華弘通の為に命を捨つるならば、沙(いさご)を以て黄金にかうるが如し。またこの法を持たん日より思い定むべし。されば、祖師開山の身命を抛(なげうち)ての御弘通も、我等衆生を救助せんに思食(おぼしめ)しが故也。日に三たび恒沙(ごうしゃ)の身を捨(す)つとも、一句の力を報い難し。

高祖大士の教えを拝見すると、この真実の教えがお広まりになることに自分の命を費やす人は、喩えて言えば、砂を砂金に変えるようなものです。そしてこの教えを頂いたその日から心に深く刻みつけることが大切です。お祖師様を始めとする先師方や開山聖人(門祖日隆聖人)が命を投げ出してご奉公くだされたのも私たちを救い尽くしたいというお慈悲のお陰なのです。そのご恩に報いなければ、一日に三回生まれかれるとしても、無駄にしか命を終わらせることしかできず、それは法華経の一句の功徳に報いることができません。だからこそ、常に御題目の功徳を人に聞かしめることが何より大事なのです。

当門の信者は、弘法のために命をすつべし。一人二人たりとも教化して、この法を持たしむるを、罪障消滅大恩報謝の直路(じきろ)なり。一切衆生これによて浮かぶ。四恩をもこれによてつぐなう。これ仏祖の本意にかなう。

そうした生き方をさせていただくのが、本門佛立の教えなのです。たとえ一人にでも二人にでも、人間として素晴らしい生き方を教え、この教えの修行を共に心がける人々は、自身の今までに行って来た欲望中心の生き方から、真実の人間としての生き方に変わるのです。これこそが、お釈迦さまのお慈悲、お祖師さまのお慈悲に応えられる道なのです。この教えがあればこそ、この地球上に生きとし生けるものは救われるのです。人間が人間として生きていく上において絶対に必要不可欠な要素は四つあり、それを四恩といい、その四恩に報いる道は、このご信心をさせていただくことにあるのです。この道こそが仏さまの教えの本当の心に叶うものなのです。

されば四條金吾は龍ノ口にゆかせ給うに、御馬の口をとり給い、朗師は師匠の御頸にかわらんといどみ給えり。薬王(やくおう)の臂(ひじ)を焼き、楽法(ぎょうぼう)の剥皮(はくひ)に劣れることかは。

そのために、高祖大士の時代では四条金吾殿は恩師(高祖大士)が処刑されるときにご自身もまた命を捧げようと龍ノ口の刑場にお供をされ、日朗聖人は御師匠のかわりに自身の首を差し出そうとされたのです。また法華経の中で薬王菩薩は真実の教えを聞くために自身の肩に火を付け供養なされ、楽法菩薩は正しき教えを書き止めるために自身の皮をはいで正しき教えを書き残されたのです。そして、私たちがこのご信心を他の人々に勧めることは、これらのことと同等の功徳が頂けると教えていただくものなのです。

されば小権迹本の起盡(きじん)を学びて、謗法を折伏すべし。もし隨力演説も堪えざる器ならば、外護の志をいたすべし。阿仏房(あぶつぼう)、千日尼(せんにちあま)は寒暑をいとわず夜半に供御(くご)をはこびて、高祖の御命を続(つ)ぐ。これ広宣流布(こうせんるふ)を祈る人に非ずしてまた何ぞや。されば真俗男女をいわずして、信心堅固捨身決定の人を是真仏子(ぜしんぶっし)とも、如来の使いともいう也。法を弘め弘通の道を助くる人を、菩薩とも、真の出家ともいうべし。

真実の人間としての生き方を知るためには、仏陀の教えを学び実践させていただかねばなりません。そして、その説かれた法のあり方、小乗仏教は何のために存在し、なぜ仏さまは小乗を説かれたのか、そして大乗仏教の真実の意味、なおかつ説かれる仏さまはお一人なのに、説かれた仏さまの数はそれこそ数え切れない程多いのはなぜか、そしてそれらの仏さま方が存在すると説かれた由来は何のかということを知らねばならないのです。そうした中に、この宇宙と今我々の住む世の中の成り立ちを知ることができるのです。そして、永遠の過去から存在する法と、それから生み出された法との関係などを、それぞれが自身の力に相応して学ぶべきなのです。その法の存在がわかれば、合法と非合法の判断も正しく持つことができるのです。非合法とは、合法の存在に対して対極になるものです。すなわち、非合法というのは、法を謗(そし)ることであり、謗法(ほうぼう)こそ一切の悪を生み出す元ですと恐れなければならないのです。もし、そのことに堪えうることができないのであれば、真実の法に合わせて行動をする人たちを守ろうという志を起こすことが大事です。過去の歴史を見ると、高祖大士の時代には、阿仏坊や千日尼は、真実を広めるために高祖大士が佐渡に流されたおり、日々のお食事を運ばれ、真実の大法を広めるための外護の志を立て、正法の法師の命を繋がれました。これを、正しい法が広まることを祈る人というのです。つまり、出家在家を言わず、ただ正しき法のお広まりになることを喜び、自分の一生を正しき法に対して使わさせていただくことを心に決めた人を、本当の仏さまの子供(仏子)というのです。また、そうした生き方をする人間を、仏教では真理(如)の世界からこの世界に来る、つまり「如来の使い」というのです。これこそが菩薩といって、完成された人間になろうと努力する人であり、真実の出家ともいうのです。

設(たと)い出家僧形たりとも、説法をきらい、謗法をせめず、ただ現世の寺務(じむ)におわることのみいいて、弘通の方を忘れたる僧を真の出家というべしや。寺務は自他宗共に同じ。折伏教化は当宗に限る。何ぞ形のみの出家にほこりて、一人をも教化せず、信施をむさぼりて、檀越(だんのつ)の謗法を責ざる。稀(まれ)に人身を得、たまたま出家僧形となりて、御門流の中に養育せられ、仏祖の大恩を忘却(ぼうきゃく)して、弘通の思いなく、利養に貪著(とんじゃく)し、酒食にふけりて、誦経(じゅきょう)に物ぐさきこと、沙(すな)を噛むが如く思えり。不知恩の者は畜生なりとはこれ也。所謂(いわゆる)法師の皮を着たる畜生、出家の名を盗みたる賊(ぬすびと)也。願くはこの域(いき)を免(まぬが)れて、是真仏子の数に入り、弟子といわれて、弘通の道に励むべし。されば形の在家なるを見て、堅信の行者を軽しめ、堕獄することなかれ。

たとえ形は僧侶のように見えても、教えに対して向上心を失ってしまったり、仏さまの教えを人々に伝えて多くの人が幸せになってほしいとも思えず、また尊い教えを広めようとしないようならば、本当の仏弟子といえるでしょうか。寺院というものは、本来の意義無くしては存在できないもののはずです。しかし、一度できあがった建物や組織は、人間本来が持っている愚かな心に囚われて運営してしまうのが人間であり、現状維持に終始してしまいやすいものです。そのことを恐れないと、時代とともに組織の運営だけに囚われて、肝心の「教えを実践する場が寺院である」という意義を忘れてしまうのです。世の中には、法華経の教えを頂いている寺院だけでなく、他の教えの寺院もたくさんありますが、人々を真に幸せに導き、人間として活きていく意義を学べ、そして多くの人々と共に幸せを願えるのは、真実の教えを頂いている菩薩、つまり本門の教えを頂いている我々だけなのです。

この経受持(じゅじ)檀那(だんな)たらん身、弘法の為には身も命も惜しむべからず。況(いわん)や妻子(さいし)所領(しょりょう)をや。

この教え(経)を信じ持ち、正しきことに布施の修行をさせていただく身の上にならせていただいた私たちには、正しきことのためには自身の命をも捨てる覚悟が必要です。命を懸けてさせていただくのですから、当然自身を取りまく様々な社会的要因に心奪われることなく、ただ正しき法が広まることだけを心がけなければなりません。そうすることが本当の意味での家族の幸せを生み出す基となるのです。たしかに家族を思いやることは大事です。しかし、迷妄に愛することは決して家族を大事にすることではなく、ただ自分の思いを周りにぶつけているだけなのです。

高祖曰く、法華経への御布施と思へ。また曰く、田畠(でんぱた)所領を法の為に布施すとも、物の数にてかずならず。また仰せに曰く、日蓮は日本第一の富めるもの也。法華経の宝前(ほうぜん)に命を奉ると。されば世財は命よりは次ぎ也。現身(げんしん)を助くといえども未来の悪道は免れ難し。故に妻子金銀等よりも、色食よりも、家業よりも、大法を大事と思うを、値いがたき御法(みのり)と思ふ人なり。家業ありての信心ぞと思える人々は、無量劫(むりょうこう)にも値い難き大法也と思わぬ人なり。かゝる信心薄き大法を軽しむる者を仏子といわんや。法門きゝていねむり、首題を唱へてあくびなどせん者を、如来の使いといわんや。衣食住ともに我が身十分にして、余り物あらば法にも僧にも信者にも供養せんと思う様の三宝を軽く思える人、値い難き大法なりと思わんや。これらは与えていはゞ、信者の中にも入(い)るべけれど、これなお怨嫉也。よろこんでこの法のために身命財を抛(なげう)つ者にあらず。

高祖大士(日蓮大菩薩)のみ教えには、自身の命を正しき教え(法華経)に使うことは最大のお布施であると心得なさいとあります。また、たとえ自分がこの世で所有する財産の全てを布施したとしても、命を正しきことのために使う布施行には及ばないのであるともお教えいただくのです。また本当の意味での富める者ということを高祖大士は自身になぞらえてお教えくだされています。法華経の御宝前(御本尊を奉安させていただいている場所のこと)に命を奉るとは、正しきことのために自身の命を使う者のことです。いかに世間での財産や家族が大事であっても、命が一番大事なのです。自身が大事であるからこそ自身を取りまく人々に愚かな行いをするなと説くのは仏教の原点でもあります。いくら財産がたくさんあっても、一時の救いは果報が尽きればもとの状態にもどってしまい、真実の救いとはなりません。未来の世界へと通じる救いをさせていただかなければならないのです。未来において悪の道につながることを止めなければならないのであり、そのことについて一時の幸せを追うあまり大義を見逃しては人間と生まれた甲斐はないのです。人として一生を考えるのなら、家や財産よりも命が大事だからこそ、人間としての生き甲斐が大事であり、その生き甲斐とは、人として常に向上心を持ち続け、さらに多くの人々に慈しみの心を持って接して生き抜くことなのです。それが大法(正しき教え)の広まることを喜ぶ人というのです。ところが、自身の生活の基盤があればこそ信仰ができるのだという人々が世間には多いのです。こういう考え方では永遠に宇宙の真理など考え付きませんし、本当の仏さまの教えを頂くことはできません。だから、いくら正しき教えにめぐりあったとしても、尊い教えあると思えない人々であり、そういう人は教えを頂く場にいても、あくびや居眠りをしてしまい、真実の苦しみから逃れるチャンスを逃してしまう人々です。自分の衣食住は充分であるのに不足のように感じてしまい、苦しみを増大させてしまっていることにも気付きません。また、少しばかり自身の生活から余りが出た場合にのみ布施供養などをするという人ですから、真実の仏弟子とはいえません。中にはこういうご信者もいるけれど、それは信者という名前のみであり真実の仏子とは成り得ない人たちです。正しきことのために生きることができるのが真実のご信者といえるのです。これは、ご信心のために生活を捨てよということではなく、日々の生活において欲に負けるなということを実践するためのものなのです。

大恩教主に、凡夫の方(かた)より恩に着せ奉りて、口唱もし、供養をもする人也。何ぞ法華経より大事と思える金銀等を捨てて、弘通の為にせんや。信心薄きものは、一無間(むげん)二無間、乃至(ないし)十百無間疑いなきものかの数に入るべきか。

仏さまから人間としてどのように生くべきかを学んでいるのですから、人間にとっては大きな恩を頂いているともいえるのです。ですから、仏さまのことを「大恩教主(大恩ある教えの主)」というのです。その大恩ある教えを頂いて、真実の御題目をお唱えさせていただき、供養の心を起こすのがご信者です。そう思えない人々は、法華経の教えより、家倉財産や金銀等の方を大事に思う人ですから、自分のさせていただく布施の行が、正しきことのために捨てさせていただいていると思えず、正しき教えが広まってゆくことも望まないでしょう。信心に対して一生懸命でないものは、非常に長い間かかってもそのことが理解できず、迷いの世界に生き、人を怨むか嫉むのが精一杯の生き方しかできないでしょう。

いさゝかの御縁につらなり、少しの欲の余りの供養して、慢心すべからず。よしや命を奉りたるも、ほこるべきいわれなし。仏祖にたすけらるゝ身として、仏祖を却(かえ)りて助けたるように思える心得違い等をする人あらば折伏すべし。一日に恒沙(ごうしゃ)の身を三度捨つとも、一句の力も報じ難し。されば学問し、他宗折伏すること能(あた)わねば、信者の中の謗法を見かくし聞きかくしすべからず。また力に随いて説くべし。それもかなわねば、行者の外護(げご)となれ。また折伏も供養もなる身なれば二つともせよ。二つともならずば行者につかわれよ。これもせめての御報恩と思いて歓んでせよ。然(しか)らずば冥加(みょうが)にはずるべし。左様に思い取られずば、わが不信を救護(くご)し給へと懺悔(さんげ)して、一身に汗をながし、堕獄の罪をのがるべし。かくの如く思い取りて、一生空(むな)しからず。本因妙(ほんにんみょう)を怠るべからず。弘通して衆生の悪道に堕(お)つるをたすけ、功徳をつむを、今生人界の楽しみと思うべし。他宗余門の弱き信者を手本とせず、堅固(けんご)の信行励むべし。歓んで法門をきゝ、常々教化折伏の用意を心懸(が)くべし。何事も信心を真っ先に立てて、計(はから)うべし。これ、本門佛立宗の信者の心得也。毎朝これを読むべし。

このたび、正しき教えのご縁を持たせていただいたのですから、日々には欲を少なくして足るという生活を心がけ、そして、仏さまや正しきことを伝える人々を供養させていただいたことを決しておごらず、それが自身の命を懸けてさせていただいたことであっても、それは威張ることではありません。もし威張る心が起これば、今までさせていただいたことが無駄になってしまうのです。仏さまから教えを頂き、動物ではなく、人間として生活させていただける、ということを弁えないで、もし、仏さまに助けられた人々が考え違いをして、信者がいるから仏を養えると思える人がいたのなら、それは間違った考えであるということを教えてあげなければなりません。そうでなければ、人間が何度生まれ変わっても、正しい教えに対しての恩に報いることはできません。ですから、学問のできる人はしっかり教えを学び、常に正しくあることを人と共に語り合えるようにさせていただくことが大事です。それができないならば、ご信者の中で法を謗る人がいれば、その間違いを正してあげられるようにしなさい。これは自分の力に随って教えを説くことなので、「随力演説」というのです。また、その自信もない人は、正しきことに命を懸けている人を護るようにしなさい。また、人々を正しく導ける力、供養させていただける力があるのなら、二つともさせていただきなさい。二つともにできない人々は、正しきことに頑張っている人の力になれるようにしなさい。それが恩に報いる行為になるのです。さらにそういうことができなければ、自身の至らなさを自覚して、一心に仏さまに自己の改革をお願いしなさい。そして、正しき教えを説かれる場所などを綺麗にするように心がけ、日々一生懸命に、ふき掃除などをさせていただき、汗をかきなさい。そうすることが正しき道を歩む人々となれる近道なのです。

一生懸命に努力すれば、必ず人々が悪道に落ちることを助ける行為に繋がるのです。その行為を積み重ねて行うので、仏教ではこれを「功徳」というのです。この功徳を積むことは人間にしかできないことです。これを楽しみと感じられるようにしなさい。それが本当の仏教なのです。それなのに、真実を知らない他宗や、同じ御題目を信じているように見えてしまう宗旨を手本にして生きていては、かえって真実の教えを謗ってしまうことになるのです。

正しき心ある人は、常に教えを頂くようにすることです。そのことが他の人々のために教えを説けるようにならせていただく道なのです。この用意を怠らないことが大事です。何事をさせていただくのにも、真実のご信心を先にさせていただくことを考えることにより、自身の生き方が、かえって上手く幸せに生活させていただけるようになるのです。これが本門佛立宗のご信者の心得というものであり、毎朝にこれを復唱して心に染め付けなさい。

この大法を持ちて、一生楽(らく)せんと思うべからず。御法のために苦労するを楽しみとせよ。女が男の為に苦労をし、親が子の為に身をくるしめて、苦とも思わぬ様に、法の為に身を捨てて、これ程の喜びはあらじと思うべし。一期(いちご)を過(すぐ)ることほどなし。一生空(むな)しくすべからず。人身を得て、この御経に値い奉れる、この度この信行せずして、いずれの時にかこの行を成就せんと、怠りを忘れて励むべし。これを得せぬを、愚中の愚、罪人の中の罪人、迷いの中の大いなる迷いというべし。

この正しい教えを、決して自身の生活を上手く運ぶための手段などと考えてはいけません。そうした考えをもてば、目先のことに捕らわれてしまい、苦しみの結果を起こす原因となってしまうのです。例えば好きな男性や女性ができたとき、その人のためにと思えば少々の苦労は苦労と思わないでしょう。また、親が我が子のために一生懸命になるときも同じです。そうした気持ちを正しき教えに、またそれを伝えてくださる方のために持たせていただくことが、人間としての本当の喜びなのです。

このたび、せっかく人間として生まれ合わせたのですから、その意義を学び、人々と共に正しきを語り合える人として生きて行きなさい。正しきことのために、「今」一生懸命させていただかないと「いつできるのか」と考え、今頂いている教えをしっかりと行えるようになりなさい。これを分からない人々は、人間ではなく、この地球上に住んでいる他の動物と同じようなものとなってしまい、単なる霊長目類のヒト科としての生き物でしかありません。それなのに「人は万物の霊長」などと過信しては、この地球を汚すだけの存在となり、決して自身の幸せをつかむことはできないのです。現在の環境は私たち人間が汚し続けたから気象も変わり、住みにくくなっているのです。これは自分で自分の首を絞める行為以外のなにものでもないのです。そうした人が正しき仏さまの教えを頂くことにより、はじめて人間として正しく生きて行くことができるのです。

慶應元年六月

清風謹記

慶応元年六月

清風謹んで記す

信心弱き人も、この書を見ば、酒の酔の醒めたるが如く、狂える者の正気になれるが如く心をあらためて、信行の道に進むべし。これにも驚かで、怠りを改めんとも思わぬ人々は、三五の塵點(じんでん)をも経(へ)ぬべし。あゝすべなしや

信心が弱い人も、この書き物を読み、我が心の迷いを退治しなさい。それは丁度お酒に酔っている人が正気に戻ると同じです。今現在ある苦しみは自身の心が作り出したものであるということに気付けなければ、このたび人として生まれた甲斐はありません。今の自分の一生が終わり、また別の生命体として、この地球上に生まれても、自分の作り出した苦しみの中で生きていくことになってしまいます。たとえ自然界の天災や人災・厄災から逃れたとしても、自分のした行為からは逃れられません。そうした生き方を永遠に続けていかなければならないのを三五の塵點を経るというのです。そうなっては、せっかくの一切の人々が救われる仏さまの教えが活かされないことになってしまいます。そんなことにならないようにしなければ、私たちも生きて甲斐ある、素晴らしい一生を送る術がないことになってしまうのです。


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