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イスラエル渡航記 第15話 「悲しみの道」

長松清潤 記


 キリスト教徒がお祖師さまのご尊像を見て、「厳しい眼をしていて怖いよ。黒いし、怖い顔をよく拝めるなぁ」と言いました。文化の違いというものは不思議なもので、お祖師さまの御眼が厳しいということは分かるとしても、信仰の違う私には、十字架の姿も電気イスや首吊りと同じように感じられて、死刑の姿を拝んでいることの方が何倍も恐ろしく感じられるのでした。

 米国を横断していた際、テキサスに入って「ブッシュランド」という地名の看板を見つけ、テキサスの盟主ブッシュ家が楽園でも作ったのではないかと冗談のように思いながら写真を撮り、車を走らせて間もなく、巨大な十字架が見えてきました。高さ三〇メートルは超える白い十字架で、敬虔なキリスト教徒であるブッシュ大統領が、またとんでもないモノを作るものだと感心(?)してフリーウェイを降り、見てみることにしました。

 近づけば近づくほど巨大な十字架。テキサスの広大な牧草地に、突然出現した十字架の塔に隣接して建物があり、また十字架を囲むように多くの銅像が配置されていることに気づきました。そう、この銅像群は、私が聖墳墓教会で見た小さな彫像群を大きくして配置したものでした。「ヴィア・ドロローサ」「悲しみの道」ともいわれ、昨年公開された「ミッション」という映画でも描かれた、イエスが十字架を背負って歩いたとされる場面。話はずれるが、この映画はあまりの暴力的な描写に、決して観ることなどは勧められない。私ですら、観た直後から制作者やこの映画を観て涙する人の心をどうしても理解できないと頭を抱えてしまった。

 とにかく、当時この地方を統括していたローマ帝国の総督ピラトの官邸にユダヤ人の群衆たちが詰めかけて来た。新約聖書によればユダヤ人が最も嫌悪した点は、イエスが自ら神の子と称したことだったといいます。ユダヤ教の一神教で形に表せない「神」の概念からすると、律法学者は勿論、民衆も彼を許すことが出来ないと死罪を願ったのでした。急遽、この官邸で裁判が行われ、有罪となったイエスが官邸からゴルゴダへの丘まで十字架を背負って歩いたというのです。私も、その道、「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」をゴルゴダのある聖墳墓教会まで歩いてみたので、このテキサスの彫像群に本当に驚きました。そして、旧市街の喧噪に包まれたあの「悲しみの道」とおぞましい暴力描写のある映画のこと、そして聖墳墓教会を思い出したのです。ここでも、このテキサスでも、極めて惨い物語が信仰を集めているのです。

 もう一つ、このテキサスで忘れられないのは、中絶に関する彫像でした。アメリカの政治を語る時、中絶の容認か反対かが非常に重要な論点に挙がります。これは宗教票に最も大きく関係する事柄なのですが、テキサスというアメリカの深南部の、キリスト教右派の中心地では、さらに直接的に中絶に反対する彫像が置かれていたのでした。それも、堕胎した胎児をイエスが手の上に乗せて嘆いているのを模したもので、石碑からも出ている手にも胎児がおり、旧約聖書のエレミア書の第一章五節「わたしはあなたをまだ母の胎内につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し〜」という文が刻んであるのでした。余りに壮絶な描写に、ここでも言葉を失いました。

 聖墳墓教会で経験したことが、またテキサスで垣間見て、エルサレムで起きたと伝えられる出来事が、世界中に広がり、今でもアメリカ社会は勿論、世界政治にも強い影響を与えていることを痛感したのでした。


(妙深寺報 平成17年6月号より)