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イスラエル渡航記 第5話 「湖 畔」

長松清潤 記


 アラブ人の街とユダヤ人の街との違いは、一見すればすぐ見分けられることが分かりました。アラブ人の家の屋根には、黒いドラム缶のようなものが乗っているからです。タクシーの彼に聞くと、「臭いを嗅げば、アラブ人の街に来たことが分かる。臭いからだ」と言っていましたが、上水道の設備が乏しく、給湯器も高価なために使わず、屋根の黒いドラム缶の水を太陽で暖めているそうです。確かに、ユダヤ人の住む街の屋根にはありません。

 ナザレは、イエスの故郷のような街。小高い丘を登ると紀元前からある古い町が見えてきました。ビデオを準備していると、突然ドライバーは車を道の脇に寄せました。ちょうど街の入り口、山の中腹です。尋ねると、エンジンのオーバーヒートだそうです。それ以来、きつい坂を上ろうとするたびに中腹で車を停めて、数分間休憩をすることになりました。

 街の雑踏の中に車を入れると、細い道が車で溢れています。クラクションもニューヨークと変わらないほど鳴り続けています。グルグル迷路のような街路をくぐり抜けて駐車場を探し出し、この街の観光名所になっている「受胎告知教会」に辿り着きました。

 これから世界中のキリスト教徒たちが訪れる場所を廻ることになりますが、観光名所になっている教会や遺跡等は、前述した通り破壊と再建を繰り返した建物ばかりで、当時の面影は残っていません。この受胎告知教会も4世紀にコンスタンチヌス帝が建造したといわれていますが、十字軍とイスラム教徒との壮絶な闘いの中で跡形もないほど破壊され、現在の建物は1969年に建てられた真新しいものに過ぎません。

 同行したドライバーはユダヤ教徒で、キリスト教には何の興味もないようでした。彼はゴラン高原の北部の出身で、何度も兵役を重ね、シリアやヨルダンとの戦争でも活躍したことを自慢していた生粋のユダヤ人です。ですから、教会に入るときもボーっとしたままで、私が「君は彼らのように祈らないの?」と聞くと、「なんであんなモノが神と言うんだい? 神は神だよ。形に出来るはずがない」と答えます。偶像崇拝を戒めるユダヤ教徒とキリスト教徒との全く異なる宗教観を、彼のひどく退屈そうな発言から感じます。欧米からはキリスト教の巡礼が来る、アラブ人は巡礼者にロザリオを売り、ユダヤ人はタクシーで観光案内をする、仏教徒の私は、そんな不思議な光景を見ながら、仏教こそ世界に必要だと確信を深めている。そんな世界の縮図、中東で起きている複雑な社会を感じていました。

 キリスト教徒は、ナザレをイエスの父というヨゼフ、母マリアが暮らし、イエスも幼少時代を過ごした町であると信じています。そして、この教会はマリアが処女のまま身籠もったことを神から告知されたとして祭壇を祀り、祈りを捧げています。私が訪れた時も巡礼者が祭壇を囲んでいました。

 次に向かったのはティベリアです。ナザレからいくつか山を越えて、坂を下りながらカーブを曲がると、眼下に湖が見えてきました。ガリラヤ湖です。この湖は、キリスト教徒にとって特別な湖です。それは、イエスの主な布教の場であり、聖書にはこの地で数多くの奇跡が表れたと伝えられているからです。ティベリアはガリラヤ湖の湖畔にある街で、紀元前後から歴史に登場する古い町です。私たちは、街に入るとカフェに入り、彼が注文したイスラエル料理を注文し、ランチにしました。

 ガリラヤ湖は、赤茶けた大地と岩がゴロゴロと転がる丘に囲まれた湖です。湖畔を走りつつ、穏やかに波打つ湖面を眺めながら、三大宗教の中の一つ、キリスト教の原点を見つめていこうと考えていました。

 湖畔にある廃墟、カペナウムには、ユダヤ教の教会、シナゴーグの石柱が残されています。当時、この街は多くのユダヤ人が住む、湖畔でも大きな街だったといいます。弟子であるペテロとアンデレはこの町の出身で、イエスは彼らの家に住み、この街から宣教を始めたと伝えられます。この廃墟の町で、私が興味を引かれる点といえば、それはユダヤ教徒に対して新しい教義を唱えたイエスたちが取った行動です。それはユダヤ教徒にとって不変と信じられていた「律法」にある安息日に、敢えてイエスが布教活動を行っていたということです。ユダヤ教では、安息日には会堂(シナゴーグ)に集まって、聖書(旧約)の朗読と勧めに耳を傾け、祈りを捧げる定めとなっていました。その「安息日」に、イエスは安息せず、活動し、さらには会堂に入って教えを説いたと言います。当時のユダヤ教が腐敗し、形式化していたとは断言できませんが、仏教でも既成化と大衆化を繰り返したように、ある権力と化した宗教に立ち向かった大衆の中の宗教者としては、注目に値すると考えます。

 しかし、イエスはこのカペナウムの民衆たちがイエスを受け入れないことを知ると、旧約聖書に端を発する三大宗教の危険なDNAを萌芽させるかのように、断罪の言葉を発し、それらは聖書に刻まれてしまいます。
「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落とされるであろう。お前の中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日まで残っていたであろう。しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」
ソドムとは旧約聖書にある町。罪深い故に神に滅ぼされた街のことです。

 他にもキリストは言っています。
「私が、地に平和をもたらしに来たと思うな。私は平和ではなく、剣をもたらしきにたのだ」(マタイ伝)
「私は人を父に刃向かわせ、娘を母親に刃向かわせ、義理の娘を義母に刃向かわせるためにやってきた。そして、おまえたちの敵は、おまえたち自身の家族の中の者となるだろう」(マタイ)
「私のもとにきながら、自分の父や母、妻や子供たち、兄弟姉妹を憎まない者は、私の弟子にはなれない」(ルカ伝)
などと、統一教会などが多用することになる他を断罪する、数多くの危険な言葉を聖書に残してしまうのです。

 私たち仏教徒は、一人の尊敬できる面を持つ宗教者としてのイエスの行動や美辞麗句の裏側に、確かに旧約聖書に端を発する三大宗教の持つ恐ろしいDNAが隠れていることを忘れてはならないのです。彼の最期を題材にした映画が封切られ、話題になるとしても。 

 穏やかな湖のほとりで、私は仏教徒が持つべき使命を考えていました。


(妙深寺報 平成16年5月号より)