インド弘通の最前線にて
■はじめに
海外のご信者方から教えていただくことの多さに、今更ながら驚いておりました。彼らは、佛立開講一五〇年の御正当をお迎えする私たちにとって、草創期の御導師や御講師、ご信者方が持っておられた情熱や使命感、躍動感を彷彿とさせて下さいます。インドやスリランカのご弘通の現場、ご信者方との交流を通じて、文章だけでは拝察できなかった百五十年に及ぶご弘通の歴史を、彼らから勉強させていただいているような気持ちがしました。
勿論、国内でもご弘通の最前線には、強いご信心と情熱、使命感が必要です。私たちも互いに励まし合い、切磋琢磨してご弘通ご奉公に取り組ませていただいております。しかし、どのように差し引いても、やはり私たちは先代や先々代の教講の方々が整えて下さった環境の中でご奉公させて頂いています。お寺があり組織もあり、何より御導師方と共にご奉公をされてきたお役中がいてくださいます。そのような環境の中でご奉公をさせていただいていると、いつの間にか何か大切なものを忘れているような気持ちになります。それはお寺も組織も何もない、ただ御題目を奉じて、ゼロから切り拓いていかなければならないようなご弘通のご奉公であり、そこに必要不可欠な情熱や使命感であると思います。私は、海外の、しかも現在草創期にあるご弘通の現場で、こうしたことを感じておりました。
■インド開教のご奉公から
平成十六年。青年教務会の御講師方と共に福岡御導師に随伴してインドに渡航し、霊鷲山のあるラージギルの街でインド開教御講のご奉公に参加させていただきました。このご奉公を進めておられたラジ・アベシンハーさんや教化親のミランダ博士とは、来日された折にお会いしたことがあり、お二人のご弘通に燃える姿には常に頭の下がる思いをしていました。その時、既にインド出身のラジ女史は、自分の使命として故国インドに上行所伝の御題目を伝えることを決心しておられました。「本門佛立宗のご信心は、病気治しのご信心ではない。貴女には使命がある」という教化親の強烈な言葉を自分なりのミッション(使命)にされておられたのです。
しかし、それを聞いた私は、壮大な夢である、同時に準備と着手には相当の時間が必要だろうと、悠長に考えていました。ところが、そのご奉公は、瞬く間に現実となり、かの霊鷲山の麓の町、ラージギルにて地元の方々参集の下、参加者一同万感の思いの中で、インド開教記念御講が奉修されたのでした。
スリランカに端を発した南アジアのご弘通は、随喜の輪を広げながら急速に進展しています。インドでのご奉公の直後、ミランダ博士から台風被害についてお見舞いのメールが届きました。帰りの機上で新聞を手にすると、巨大な台風が日本を襲い、その爪痕は深刻で、百人近くの方が亡くなられていることを知りました。ミランダ女史は、お見舞いのメールの結びに、
「いつか上行所伝の御題目が世界中に弘まり、このような恐ろしい自然災害によって、多くの人々が苦しむことのない日が来る、と確信しています」
と書いてくださっていました。彼女は、遠くの国の私たちのことを、「HBSファミリー」と呼び、深い親愛の情と敬意を表して下さっていました。その台風被害から僅か一ヶ月の後、未曾有の自然災害がスリランカを襲いました。
■スリランカへの支援活動
メールの内容を読み返し、彼の国で出会ったウィージェセケラさんや他のご信者方の姿が脳裏に浮かびました。スマトラ沖地震・津波の被害は、史上最大最悪の災害と言える規模のもので、連日惨憺たる被害状況が報道されていました。妙深寺のご信者である高島姉の突出した申し出により、年末に津波被害支援室を立ち上げ、せっかく御縁ができた方々を、全山挙げて徹底的に支援しようという気運が生まれました。連日連夜、スリランカとファックスで交信をし、被害状況を報告していただきました。勿論、ミランダさんや他のご信者の安否を確認しました。
福岡御導師はラジ女史が何度も引き止めたにも関わらず、救援を申し出た他国の関係者が入ることも困難な一月に支援の為の渡航を敢行されました。当山でも出来る限りの具体的な後援のご奉公をしたいと申し出ました。不幸中の幸いという言葉が適切か分かりませんが、御法さまのご守護を頂戴され、全スリランカ信徒の無事が確認されました。ゴール地区など、最も被害の大きかった場所では家を失った方のため、あるいは地方の自治体に、直接佛立宗の心暖かい義援金が手渡されました。続けて、三月には福岡御導師に随伴して、妙深寺からも総勢九名の青少年を中心とした支援隊を派遣させていただきました。その中には、ほんの数年前まで家の中で包丁を持って暴れていた青年もいました。包丁を振り回し、ガラスを突き破り、血を流して、部屋に閉じ籠もっていた青年です。私は、今でも目をつぶるとあの壮絶な家の中が浮かんできます。彼が暴れた日、はじめて話をしました。何でも人のせいにして、ふさぎ込んで何も信じられない、と言ってイライラしていた青年。その彼は、上行所伝の御題目のご信心に目覚め、何度も壁を御題目で乗り越えながら頑張っていました。その頑張っている彼に、スリランカの津波被害の救援に行ってもらいました。彼は、テント生活を余儀なくされた子供たちを抱えて、楽しませよう、笑わせようと必死に走りまわっていました。子供たちも、彼と一緒に明るい笑顔を見せてくれました。その姿を見て、私は泣けて仕方がありませんでした。佛立信心の繋がりが、相手を救い、自分をも救われるというご利益の連鎖が、支援活動の中で次々に現れていたのです。同行した支援者全員が、そのことを感じて帰ってきてくれました。特に、帰国後の彼の成長は目覚ましく、もう立派な菩薩、立派なお役中として活躍しています。
■海外のご弘通の現場から学ぶこと
このような経緯を経て、福岡御導師が為されてきた海外弘通の最前線と、私たちのお寺や教講が結びついてまいりました。支援している私たちの方がスリランカのご信者さん方から教えていただくことが多いという実感を持つようになったのも昨年のことでした。支援やお助行、ご奉公に行った者が、励まされたり教えられたりするのです。ご信心の面では、深刻な災害を経験しながら、さらにご弘通の意欲は高まり、ご弘通の勢いは増しているのでした。誰もがご信心の妙味、お見守りを実感して、さらなる発展を遂げようとしていると、痛いほど感じられるのです。
深い御縁を大切にしながら、昨年のご奉公を進めさせていただきました。そして、平成十六年に引き続き、平成十七年は、よりインドの深部、主要な地域でのご弘通行に行くのだと、ラジ女史からリクエストがありました。
十一月、ラジ女史が来日していた折、長松寺で十二月に予定しているインドでのご奉公について、詳しく話をして下さいました。とにかく、インドには、ブッダを生み出した非常に深い思想的な土壌があったということや、しかし、現在はブッダの教えを忘却して、悪弊の多いカースト、ヒンドゥーが支配していること。話はアレキサンダー大王やアリストテレス、ウパニシャッドからヴェーダ経典に及びました。
ラジ女史は、現在インドにも仏教を信奉する人たちが僅かながらいることやその研究者たちは法華経(ロータス・スートラ)の尊いことを知っていると言い、またチベット僧を擁護しているインド政府のことや、辛酸の中で虐げられた彼らの現在について教えてくれました。そして、十二月にはそれらの拠点とコンタクトを取り、「法華経の教えに基づく御題目口唱の意義と実践」というセッションを行う計画を立て、大いに盛り上がっていたのです。
「無より有を生ず」という現場。何の基盤もない地域での御弘通は、大変な勇気と、臨機に対応できるご信心的な資質が求められます。単に、獅子武者のような直線的な信心観や、断片的な御法門の理解では、海外弘通の器とは成り得ないということを思い知ります。側面から拝見していて、英語力などの問題ではなく、強いご信心と柔軟性がなければ舌鋒鋭い初対面の相手の質問に窮するだけです。無論、それ以前に、人間の機微が分からないようでは話になりません。お膳立てされた環境でのご奉公に慣れすぎていると、こうしたご奉公ができなくなります。自分自身の悪癖を見つめ直す意味でも、海外での活動は刺激となり、国内のご奉公に還元が出来ると信じています。
私が殊更敬服するのは、ラジ女史が「福岡御導師に任せておけば大丈夫」と信頼しきっていることです。しかし、横で見ていると、始めて降り立つ場所が多いのですから、危なっかしい場面が連続して起こるのです。つまり、実際には事前の説明も中途半端だったり、状況も混乱していたり、思わぬ事態が次々に起きる。予定が突然変更されることなど当たり前です。何が起こるか分からない、相手の資質も大ざっぱにしか分からない。そんな中でご奉公が展開されるのですから、余程強い信頼関係がなければ出来ません。こうしたことから、ご弘通の基本となる三つのことが分かります。
一つは、入信から時をおかずに菩薩に育成する、ラジ女史のようなご信者さんを生み出していること。
第二に、その方々が教務に対して、どのような結縁者を紹介しても対応できる御導師や御講師であると、完全な信頼関係が出来ていること。
第三に、実際にそうした場面で期待以上のご奉公を重ね、一瞬一瞬の出会いで「教化力」を発揮すること。
こうしたことが、草創期のダイナミックなご弘通ご奉公であると、あらためて教えていただくのでした。普段の信心修行の真価を、こうしたご弘通の現場に焦点を当てて磨かなければならないと、改めて思うのでした。
考えてみれば当たり前のことばかりです。しかし、こうしたことが形式的になってしまっている側面もあります。国内外を問わず、お膳立てされた環境に慣れず、そこから脱却したり、成長したりするための実践的な勉強と考えて、御弘通の草創期に活躍するご信者方とご一緒する今回のインド弘通行に随伴をさせていただきました。そうしたことを学ぶためならば、お金も時間も体力も惜しくはないのでした。
■インド弘通の旅へ
日程は十二月四日から十一日までの八日間で組まれました。年末のご奉公の過密さを考慮して、渡航日程も過密そのものとなってしまいました。
福岡日雙上人と妙深寺との関係は、平成八年に本門佛立宗のご信心を海外に向けて紹介するため、ホームページを立ち上げたことに始まります。当初雲を掴むような先の見えないご奉公でしたが、インターネットの中で、暗い情報や間違ったイメージが流されていましたので、寝食を惜しんで開設したのでした。今では、各国から止めどもなく問い合わせのメールが届くように成長し、喜んでいます。
日程はスリランカに一日、インドが三日、あとの四日間は移動に費やすという過酷さ。妙深寺を中心に七名もの参加者が随行しました。特に、妙深寺の青年会から川本麻美さん二十一才と中井淳くん二十才に同行ご奉公をしていただきました。川本さんは幼い頃に病気を患い、一時はご両親が命の危険を宣告されたほどでした。聴力は弱くなってしまいましたが、何とか一命をとり止め、そうした御縁から入信され、麻美ちゃんは立派に成長されました。青年会でも大活躍し、御利益で就職も内定したところでした。中井淳くんは、法政大学の福祉学部に在籍しており、成人式に顔を出した以外は、お寺との接点がなかった青年でした。今回は、突然「インドに行こう」と声を掛け、住職の顔すらはっきり覚えていない中「勉強になるから」と言って連れ出したのでした。きっと、ご奉公を通じて何かを感じ、社会を背負うような体験や発見をして成長してくれるだろうと信じていたからでした。
過密なスケジュールは、二十代から三十代の私たちにとっても厳しいものでした。当然、六十才の還暦を迎えた福岡御導師にはさぞ辛いことだろうと心配していたのですが、何と若者以上にお元気で、海外弘通の最前線に立つ猛者は違うと改めて驚きました。二日目も予定表では「宿泊」となっていたのですが、実際は夜の十時に飛行機に乗るという、極めてハードな旅行日程でした。若者たちは外の風景を楽しむ間もなく、ヘトヘトになって移動中も寝ていました。観光旅行などでは全くなく、各訪問先では、日本からやって来る私たち、南無妙法蓮華経の教えをぜひ聞きたいという方々が待ちかまえていたのです。
■スリランカでの御講とお助行
十二月四日。すでにスリランカ入りしている福岡お導師を追って、七名が成田からシンガポール、シンガポールからスリランカのコロンボへと到着。ホテルに着いた頃には、すでに五日の午前二時を回っていました。荷ほどきを終えると四時を過ぎていました。
十二月五日早朝。コロンボのホテルのロビーに、スリランカのご信者方が面会に来てくださいました。十一月の妙深寺高祖会にお参詣下さった方々が、平日にもかかわらず各地から集まってくださり、清風寺のウィージェセケラジュンコウ師も来られて、再会を喜びました。
スリランカでのご奉公は、この一日だけで御講とお助行等で四ヶ所を回りました。スリランカは、すでに七年前からご弘通が進んでおり、津波被害での御利益や、寒村通電・降雨の御利益などが伝播して、昨年あたりでは一日に三百人もの方々が佛立宗に入信されるという急発展を遂げている国です。今回も想像を絶するような規模で教化されたことを受け、日本から三五〇幅の御弘通ご本尊をお供いたしました。
最初に御講が奉修されたのは小学校の集会所でした。驚いたことに、新聞に福岡御導師の顔写真が大きく掲載をされ、前回スリランカに来た時よりも大々的に広報されてセッションを待ちかまえていました。村をあげて小学校の会堂に子どもから大人までが参集し、可愛い子供たちが歓迎の踊りを舞い、和やかな雰囲気と、同時に何が起こるか分からない喧噪の中で開式されてゆきます。
誰もが言うことですが、スリランカの子供たちの眼差しが目に焼き付いて離れなくなります。あれほどピュアな目があるだろうか、と。大人の方々も同様に、私たちを待ち受け、見つめる目は光り輝いています。残念ながら、最近の日本では余り見られなくなった瞳の輝きだと思います。
誰もが、福岡御導師の御法門を真剣に聞いています。毎回のことですが、こうした真剣白刃取りのような状況に身を置くと、後になって思い起こしても身震いするくらいの感動を覚えます。
次に、津波の被害で家を失った家族のために、日本の私たちからの義援金で共同住宅が完成したという記念式典に参りました。その家の入り口には、「日本の佛立信者の義援金で立てた家」という銘板が掲げられ、その除幕式がありました。やはり、そこにも大勢の方々が集まっていて、なんとも言えない純粋な喜びの顔が溢れていたのです。私たちのささやかな義援金が、彼らの心に確かに届いていることを確かめることができました。
■インドに正法を弘める意義
その夜、過密な昼間のスケジュールを終えて、そのままホテルには泊まることなく、スリランカから海を越えてインドに渡りました。最初に降り立った地は、真夜中のムンバイ(ボンベイ)の飛行場でした。国内線へ飛行機を乗り継ぐために、ひとたび外へ出たとたん、一行にとっては衝撃的な光景に出くわしました。昨年同様、二歳か、三歳かという女の子が足元にすり寄ってきます。後ろには、父親のような男の人もいます。片言の英語で、
「お金。お金」
と言って手を出しています。ラジさんが上手にみんなの間に入ってくださり「いいからバスに乗りなさい」
と小声で助言してくれました。
インドを始めて訪れたメンバーは、大変なショックを受け、複雑な気持ちが去来していたと思います。私も先年、ビハール州を訪れた時に出会った少女の顔が今でも忘れられません。
移動のバスに乗ると、ラジ女史が、
「いいですか、あの後ろに立っている男は、あの子のお父さんではないの。あの男たちは子どもをさらってきて、外国人からお金をもらうように教えているの。人間に生まれてきて、最初に覚えることはお金をせびること。何てむごいことでしょう。でも、それらが組織的で余りに多過ぎるために、政府も警察も取り締まることなど出来ない。私たちが可哀想だと思ってお金を上げれば、あの子はビスケットをもらえるけれど、男がお金を取り上げるだけ。私たちの行為は同時に社会悪にも荷担することになるの。やっぱり、仕事は子どもにさせれば良いや、ということになって、また男たちにさらわれる子が増えるだけです。あの子たちを本当に根底から救うためには、真に正しいブッダの教えを伝えることです」
そう教えてくれました。福岡御導師は、
「インドという国は、ヒンドゥー教の思想、カーストの差別が未だに根強く残っていて、貧富の差が非常に激しい国です。あの男たちは、鵜飼いの鵜のように幼児を使い、外国人旅行者から金を巻き上げている。社会的にも改善しようという動きもない。この問題は本当に根深いもの。今回は福祉を勉強している人も同行をしてくれているが、同じ善行は善行でも、本当の意味での善行が何かを考えてくれ。小善を捨てても大悪を許してはならない。本当の大善に目覚めるべきだ。私たち佛立宗が本当にするべきこと、それを考えて欲しい」
と同行者に話されました。
■ナーグプルへ
十二月六日。早朝七時過ぎに飛行機を降り、ナーグプルというインド大陸のど真ん中の町に着きました。実は、この地はナーガルジュナ、八宗の祖と崇められる龍樹菩薩の教えが広まった、極めて仏教徒にとって重要な都市でもあります。雲一つない青空が広がり、見渡す限り大きなビルもなくスッキリとしていて「あぁ、インドだなぁ」という感動と、昨夜の複雑な気持ちとが交錯します。幸い、この日はゆったりとした予定になっていました。仏教寺院などを見学し、夕方になってホテルにて翌日の打ち合わせをしました。
ラジ女史がコンタクトを取り、見事にセッションまで設定した相手とは、ゴータム博士というインドの教育界の指導者と仰がれる人でした。この町の特に貧しい人たちの居住区に研修所を建て、ブッダの教えに基づく平等思想を根底にした人材や、インドの未来を背負う政治家や学校の教師を養成する研究施設を運営されています。この方がラジさんの働きかけに応えて下さり、この地での会合が実現したのです。
■カーストとアンベードカル博士
このナーグプルに来るまで、偉大な人物について私は全くの無智でした。それは、近代のインド史に於ける最も重要な人物であり、インド憲法の父といわれ、インドの仏教再興をアウト・カースト(カースト階級にも入れない不可触民階級)出身という辛酸の中で成し遂げた人物、アンベードカル博士のことでした。日本の私たちはインドのカースト制度を知ってはいますが、四つの階層、つまりブラーミン(僧侶)、クシャトリア(王侯・戦士)、ヴァイシャ(商人)と、上記三つの階層に奉仕する存在としてのシュードラ(労働者・農民)ということ程度は知っています。しかし、ヒンドゥー教の教義に根ざすカーストは、現在では三〇〇〇以上ものサブ・カーストを生みだしており、さらにそのカースト制度にも入らない存在が「アウト・カースト(不可触民)」として位置づけられているのでした。
三千年間、カースト制社会の中で、不可触民は黒人差別を遙かに凌ぐ家畜以下の壮絶な差別を受けてきました。この宗教に根ざす差別は実に残酷で、「アンタッチャブル」という言葉が示すように「触れざる者」として、この人々に触れることばかりではなく、その影や声さえも他のヒンドゥー教徒にとっては「不浄」とされていました。村の共同井戸の使用を禁じられ、寺院を造る労働は不可触民に科せられるにもかかわらず、その寺院に不可触民が入ることは禁じられていました。井戸を掘る能力のない不可触民は、上位カーストの憐れみにすがるしか術がなく、その人々が水を汲んで与えてくれるまで井戸の周りで待つしかなかったというのです。夏の激しい酷暑の中でも、水を飲むことすら許されない差別です。これらの人々は仕方なく腐った汚水をすくって飲み、そして伝染病の犠牲になるのも彼らでした。彼らは、「インター・マリッジ(階級を超えた結婚)」「インター・ダイニング(階級の違う者同士で食事をすること)」も決して許されません。サンスクリット語という聖なる古代インド語を聞くことも許されず、聞いた不可触民の耳の中に溶けた鉛を流し込むという、あり得ない虐待を受けてきた階級です。
若い時分のアンベードカル博士は、不可触民階級のマハール・カーストに属しており、差別や虐待を受けて育ちました。しかし、優秀な成績を修めて、奇跡的にも心ある後援者の支援を受け、米国のコロンビア大学やロンドン大学に留学を果たしました。それほどの類い希な才能を持ちながら、インド帰国後は不可触民の出身というだけで差別され、ホテルも家もなく、乗っている車からも叩き落とされたといいますが、先進国の最高学府で博士号を取得した不可触民は彼が初めてです。
現在でも西欧ではガンジーが敬愛されていますが、アンベードカル博士はそのガンジーと唯一正面から対決した人物です。ガンジーは非暴力・不服従の抵抗運動を展開するインドを代表する巨人であり、天才的な政治家・思想家でした。私も「偉大な魂」と呼ばれた彼のことを尊敬してきましたが、私たちの知らないインドの歴史の裏舞台では、壮絶で、より重要な戦いがあったことを知ったのです。
勿論、ガンジーが極めて偉大な人物であったことに違いはありませんが、彼は熱心なヒンドゥー教徒でした。彼は、カースト制度による差別を社会悪と認識し、不可触民の差別撤廃を目指しましたが、ガンジーは「ヒンドゥーの教義に忠実に、カースト制度は守るべきである」と主張し、「不可触民はシュードラ(奴隷階級に付帯する形)としてインドを統一しよう」と考えていたのです。辛酸を舐め続けてきた不可触民からすると、インド国民会議派やガンジーの言っていることには納得できるはずもありません。アンベードカル博士は、不可触民の差別撤廃とカースト制度の存続は両立しない、なぜ宗教がこうも人間を差別するのか、と主張をしました。このアンベードカル博士の根元的な問いに、ガンジーが答えることはありませんでした。博士は、時代の要請に従い、不可触民階級の画期的な存在としてインド新政府に参画し、初代の法務大臣となり、インド憲法を起草して、憲法上はカーストの差別を撤廃することを明記しました。今でも博士は「インド憲法の父」と呼ばれています。
ところが、彼はそれで満足することはありませんでした。カースト制度の根源、インド国民の大半が信じているヒンドゥーという宗教が存在している限り、宗教が生みだしている不可触民をめぐる恐ろしい差別が無くなることなどあり得ないと考えていたのです。後に、アンベードカル博士は「私は、ヒンドゥーで生まれても、ヒンドゥーでは死なない」という信条を宣言し、今年からちょうど五十年前、日本では開講百年の年、一九五六年十月十四日、ナーグプルの大会場で不可触民五十万人を前にして仏教徒への改宗を宣言し、五十万人と共に、仏教へ帰依したのでした。
アンベードカル博士の偉大な足跡は、マハトマ・ガンジー崇拝の影に隠れ、不可触民であることと、仏教に改宗したことで、その後は歴史の表舞台で余り語られませんでした。インドの初代首相・ネルーの名著「インド発見」にも、インド憲法の父と呼ばれている彼のことは出てきません。その評価に賛否両論はありますが、インドが生みだした真の偉大な御方はブッダであり、ブッダは人間と社会にとって在るべき真理を説いたというアンベードカル博士の思想は極めて的を得ており、その平等思想のもとでインドが独立国家として新しい道を歩むべきだという彼の確信はその通りだったでしょう。そのアンベードカル氏の忠実な弟子が、ゴータム博士なのです。
権威ある人間は、他の人々より優れた資質や社会的立場を占めているから尊敬されるのではありません。その資質や地位を活用して、それらをもっていない人々を代弁し、守るから敬意を払われるのです。海外ではエリートという言葉を嫉妬の対象にしません。なぜなら、権利を享受されると同時に、きちんと責務も果たしている人間をエリートと呼ぶからであり、アンベードカル氏やその弟子の方々には、不可触民を守る気概や彼らを代表して戦う、この国を良くしていく高い志が強く感じられました。
■ナーグプルでのセッション
十二月七日。午前中に研修所を訪れ、下見と打ち合わせをしました。午後に御講を奉修し、ゴータム氏に関係する各行政機関で指導的な立場を担う人々や知識人や研究所の学生たちが一〇〇人以上集まって、御講が勤まりました。彼らはタイトルの通り、福岡御導師の「法華経の教えに基づく御題目口唱の意義と実践」を真剣に聴講しています。私たちが敬うブッダの教えについて、そして法華経の教え、口唱という修行について、そして御題目を口で唱えるという修行の仕方や効能を熱心に聴いていました。いざ御看経の段になると、学生たちがぞくぞくと前に進んできて正座合掌し、全員が大合唱で上行所伝の御題目をお唱えしました。青年達が「御題目を唱える修行に感動したよ」と口々に言い、川本さんや中井くんが彼らに請われるまま、楽しそうに記念写真を撮り、その姿がとても印象的で感激しました。
■妙不可思議な御縁に感動
ゴータム氏は「私たちが理想とすることと日本の大乗仏教の教えは、同じものを目的にしている。インドの国が良くなるためには、どうしても仏教の教えが必要です。ぜひ多くを共有し、教えを学びたい」と力説されました。その信念に満ちたお顔を拝見し、帰国してから彼らに頂いたアンベードカル博士の本を読んで、「そういう事か」と、この旅の意義と重さがズッシリと感じられました。何とか、この御縁を活かして、今後のご弘通の展開に繋げていきたいと切に思いました。
余りに、タイミングが良すぎます。私たちは知らなかったのですが、何とインド仏教界にとって最も大切な日に私たちはナーグプルに到着したのです。私たちが到着した日は、偶然にもアンベードカル博士の祥月命日。信じられません。さらに驚くべきことですが、帰国後に文献を調べていたところ、一九五四年十二月、アンベードカル博士はラングーンで開催された第三回世界仏教徒会議に出席し、演説をしたといいます。その会議には、本門佛立宗を代表して田中日広上人が出席されており、妙深寺の初代ご住職の刊行されていた「一実」誌に、その渡航記が掲載されていました。日広上人はアンベードカルの演説を聞き、そしてビルマ各所で御題目を下種結縁された。こうした開講百年の前後のご奉公と、現在のご奉公の不思議な接点に、御法の御采配を感じて、胸が震える思いがしたのでした。
■インド南部の都市、マイソール
十二月八日。早朝ナーグプルを後に、またしても飛行機を乗り継ぎ、さらにバスに四時間揺られて、マイソールという町に着きました。ホテルに着いた時には既に日は暮れていました。
十二月九日。午前中にヒンドゥー寺院やマハラジャ宮殿を見学。熱狂的なヒンドゥー教徒の姿を目にすることができました。彼らに上行所伝の御題目を伝えることが使命ですから、彼らの現在の文化や信仰を目の当たりにすることは大切なことです。壮麗な宮殿も、インドの在りし日の豊かさを象徴しているかのようでした。
■マイソールでのセッション
午後になって、いよいよ今回の焦点であるチベット僧とインド僧と日本の私たちとのセッションです。会場は、インドで仏教教育を行っているという学校で、そこには孤児院が併設されており、お坊さん方が子供たちを看ているということでした。会場は、子どもがきちんと並んで座っており、同時にドイツ人、スイス人、イスラエル人、ブータン人等、三百人の参加を得て、「HBSの集い」が開催されました。
■チャンティング(口唱)に共感
福岡御導師は、自己紹介からHBS(本門佛立宗)の紹介、そして法華経について、さらに言葉の持つ力について話をされ、より具体的に理解を促すために、昨年国連で基調講演を行った江本勝氏の水の結晶のお話を紹介されました。御題目というマントラ、その素晴らしいマントラをお唱えする修行の素晴らしさを説かれ、子供から大人まで大変興味深く話を聞いていました。そのお話の直後に参加者全員で御題目をお唱えしましたが、チベット僧も、インド僧も、一生懸命に御題目を唱えている姿を見ると、易修易行の私たちのご信心の素晴らしさを違う視点からまた教えていただいたような気持ちがしました。私たちはチベットの僧たちが紹介するチャンティング(口唱)は、難しくて出来ません。言葉も理解できませんし、抑揚も大変難しいのです。しかし、御題目は誰もがすぐに唱えることが出来ます。すぐに大合唱になる。私たちは、「ご弘通」も「お教化」もつい難しく考えてしまっていますが、何より大切なのは「上行所伝の御題目をお伝えすること」なのです。そこをシンプルに、信念を持って実践する、実践させることが、何より大事なのだと再認識・再確認できたのでした。
インドやスリランカでのセッションというのは、まず最初に法話があり、そこで御題目口唱の意義をしっかりと教わってから、さぁお唱えしましょう、という順序です。だからこそ、インドのお坊さんもチベットのお坊さんも、そして子供たちも、南無妙法蓮華経と心を込めて唱え始めます。最初下種のご弘通の為の法要ということについて、勉強になります。法要の後、インド僧と話をしましたが、彼らは私たちの息がよく続くなぁと感心していました。面白いところに感心をするなと思い、逆に質問してみると、彼らもマントラを唱える修行するが、それは断片的で瞑想などと交互にしたり、別個にしているので、今回のように一つに集中して唱えることはなかったというのです。病気の方などがいるときには、一時間、いやもっとお唱えするんだよ、と言うと驚いていました。
■佛法西漸の意義と佛立の使命
法要の前にチベット僧と福岡御導師が話をされていました。興味深い内容で誌面では語り尽くせません。彼らが敬うヴァスヴァンドゥ(天親)などについて意見交換をされました。
個人的には、世界的に見れば「仏教と言えばチベット仏教」という風潮がある中で、より具体的に本門佛立宗が顕教の雄としての確固たる見解を伝え弘めるべき時だと思います。民族的な不幸から辛酸をなめたチベット仏教の僧俗が、強い使命感のもとで政治的にも布教という意味でも、活発な活動を続けていくでしょう。しかし、密教の持つ危険性に世界中が余りにも無知すぎるのですから、その意味での研究は今後も欠かせないでしょう。
また、最近ダライ・ラマが「ダライラマの般若心経」という本を出版して日本の般若心経ブームと連動しているようです。しかし、後にも先にも最高の般若経典群の論者であったナーガルジュナ(龍樹)の「中論」「大智度論」について吟味し、お祖師さまのご見解をいただけば、般若経典群は法華経の下地。色即是空・空即是色という哲学的な言葉に魅せられても、法華経のご信心がなければならない、とインド・チベット僧らも敬う龍樹菩薩ご自身がそう感得されていたはずなのでした。だからこそ、私たちは妙講一座の随喜段にて「まことに果報を論ずれば龍樹(ナーガルジュナ)、天親(ヴァスヴァンドゥ)、迦葉(マハーカッサパ)、阿難(アーナンダ)にもすぐれたり」と言上させていただいています。インドという原点に立ち、仏教が東漸していく中で枝葉末節に分かれた内外の相伝を思いつつ、本門佛立宗の教えがこれから西漸していく意義を考えていたのでした。
■孤児院の子供たち
難しい話はさておき、私はこの仏教センターでの子供たちの姿、仏教的な教育の在り方には心から感動しました。孤児院の子供たち、そこに住んでいる百五十人位の、言うならばムンバイで見た「お金」と物乞いをしていた子供と変わらない、家族のいないお父さんやお母さんのいない、家族のいない、そういう子たち。その子供たちが共同生活の中で、嘘偽り無く御仏を敬い、他の人を慈しむ生活をしているのです。福岡御導師がお話を終えられた時には、大声で感謝の言葉を合唱する。
「御導師さま、教えを説いて頂いて、ありがとうございました」
と言っているのです。
続いて、セッションが終わり食堂に案内され、子供たち全員と一緒に食事をしました。百五十人位の子供たちが私たちを囲むように着席しています。すると、私の子供と変わらない四才から八才くらいの子が、合掌してイスに座って待っています。我が子を思うと、落ち着いて座っていることすら想像ができません。そうすると高学年の子が、桶を担ぎながら低学年の子のお皿一つ一つに盛り付けてあげる。小さな子は、それをキチンと待っている。子供たち全員で食前偈をお唱えし、御仏に感謝してからご飯を食べ始めました。さらによく見ていると、高学年の子たちは全員、低学年の子たちの机の間に立って見てあげています。高学年といっても十才か十五才までの間の子です。その子が「ちゃんと食べられるかな」と小さな子たちを後ろから見守っているのです彼らは最後まで立っていて、低学年の子が食べ終わってから、また仏に感謝して食べ始めました。その何とも自然な姿に感動を覚えたのです。
■敬い、ご信心を教えることこそ
日本では、もしかするとテクニックのような技術は習うけれども、人間の本当に大切なことが学べなくなっているのです。学年ごとに区切られ、勉強のみ教えられる学校教育とは根本的に違うと感じました。何より「敬い」が教えられているのです。仏さまの教えで一番大切な「敬い」です。「敬い」のある生活を実践し、子供の時から自然にそれを教えてもらっている。もし、日本で高学年が低学年の食事を看るという制度だけを導入しても、高学年は「何でこんな事やらなきゃいけないんだよ」となり、低学年の子は「お兄ちゃん、早くしてよ。遅いよ」と言うかもしれない、と想像をしました。敬いのない現代社会では、全て対処療法に明け暮れて、最も大切なことだけ置き去りにされているのですから。
帰国直後に「一週間、(日本では)何かあった?」と尋ねると「子供が三人殺されました」という答えでした。恐ろしいことです。防犯ブザーや通学路の変更など、様々な対処療法がまた為されるでしょうけれども、何より大切なことはご信心である、と声を大にして言いたいのです。小善に迷っていても、誰も幸せにならないのです。社会の混迷は何ら解決されることはないのです。
■バンガロールでのセッション
十二月十日。最後となるセッションを「インドのシリコンバレー」と呼ばれるバンガロール近郊で開催しました。「ザ・スクール・オブ・エンシェント・ウィズダム(古代の叡智の学校)」という名の研修所では、様々な宗教や修行を学ぶ人たちを対象に会合が持たれました。当地でも「法華経の教えに基づく御題目口唱の意義と実践」として法話がなされ、一同で御題目口唱をし、参加者から大感激を受けました。研修所の創設者である女性の感激は大変なもので、バスが出発する前にもう一度御題目を聞かせていただきたい、御題目をお唱えしつつバスに乗る姿を見送らせていただきたいと、丁寧にリクエストを受け、日が落ちた広い敷地から、バスが見えなくなるまで手を振ってくれていたのでした。また、この研修所のテーマや運営、思想のようなものには大変学ぶ点がありました。そして、空港に向かいました。
■共感・共鳴こそ御弘通の原点
空港の雑踏に揉まれながら、インドのカオス(混沌)を痛感しつつ、帰国の途につきました。今回の旅で、学び感じたことは、仏教の国・スリランカと、仏教を捨てた国・インドの違いを改めて肌で感じたこと。そして、その中で真実の仏教を探し求めている人の多さやその方々の情熱。さらに、その方々のために、本門佛立宗の佛法西漸が必要であり、私たちに大きな役割があるということです。福岡御導師は、「佛立開講一五〇年を迎える時期に、このようなご奉公をさせていただける身の果報に心から随喜しております。今後もインドに佛立信仰が根をおろすよう一層努力していくつもりです」と話されていました。
今回の旅を通じて、福岡御導師から頂いたキーワードは、《共感・共鳴》でした。自坊の妙深寺では、総祈願に「苦楽の共感・共鳴」とご信心の基本をここに置いてきたつもりでしたが、それが実践されて当に御弘通が進展することを教えて頂きました。私たちが相手を理解する、共感しようと勤めることは勿論、相手に共感してもらえないままでは、御弘通にもお教化にも成り得ないのです。壁を作ったまま、上下の別のあるままでは、決して心と心は通じませんし、共感も共鳴も出来ていないことになります。擦れ違ったままの心と言葉は、何も生み出さないのです。形式化・儀礼化した中では、見落としがちなことです。事相を大切にすると同時に、共感・共鳴を心掛けなければ、御弘通にならないと教えて頂きました
この旅で、《共感》してくださったインドやスリランカの人たちの心には私たちと一緒に唱えたあの引き題目の響きが、今も、そしてこれからも永遠に《共鳴》してゆくと確信しています。佛立開講一五〇年の御正当年に当たり、壮大な本門佛立宗の使命、「今ぞ世界を教化せん」という情熱を抱きつつ、あらゆるご奉公に全身全霊で邁進してゆきたいと思います。一天四海皆帰妙法の祖願を、御正当年の教講全員で共感・共鳴できればと存じます。
ありがとうございました。