私たちは、戦争やテロを非難します。
私たちは、恐ろしい事態に目を背けているわけにはいきません。
自分の子どもが怪我をすれば平気ではいられません。子どもが軽く頭をぶつけただけでも、抱き上げて頭をさすります。
残念ながら、いま世界中で子供たちが傷つき、苦しんでいます。
先日、イラクへの爆撃で死亡した5才の少年の無惨な姿を見ました。
遺体を父親が運んでいました。父親に運ばれる力の抜けた少年の身体。その少年の小さなパンツが濡れていました。恐怖でおもらしをしてしまったのでしょうか。
その余りにもむごい映像に、私は号泣しました。
子供たちは相次ぐテロや爆撃に巻き込まれ、傷ついています。
爆弾を目の前に置かれ、脅され、殺された子どもたち。
悲嘆に暮れる両親や家族の姿。
人間は、人間の持つ可能性を忘れ去ってしまったのでしょうか。
人間は、人間の持つ愚かさと恐ろしさに支配されてしまったのでしょうか。
憎悪が世界中を覆い尽くしています。
犯罪者を罵り、テロの首謀者を呪い、政治家に憤っても、失われた命は戻りません。
不確かな情報ばかりが世界中に広がり、誰も何が真実か分かりません。
戦争の理由の裏側に欲望が見え隠れし、宗教や信仰がテロを支えているように感じる世界。
真実は埋没して、その片鱗すら見えず、確認の術すら失われています。
私たちは、余りに無知で、無力です。
戦争は最終的な政治的な手段だとも言われています。
人々が傷つけ合い、殺し合う戦争を回避するために、あらゆる政治的な努力が求められています。
万策が尽きた時、国家は戦争という恐ろしい行為を選択するのでしょう。
それは、リスクが高く、恐ろしい行為です。
しかし、先制攻撃の根拠も曖昧なまま、努力もし尽くされないまま、テロや攻撃が行われていることが残念でたまりません。
重ねて、私たちはあらゆる戦争もテロも、攻撃も非難します。
愚かな行為を今すぐに止めなければなりません。
また、私たちは世界最大級の宗教が敬う「神」が、こうした戦争を肯定しているのではないかと考えています。
美しく、優しい言葉も存在するバイブル。
しかし、私はそのバイブルの中に、世界平和にとって危険なDNAがあるのではないかと考えます。
兵士たちは信仰に支えられています。
あらゆる国家は、兵士たちのバックル、たばこ入れ、水筒、腕章に、神の名を刻んできました。
ある人は生き、ある者は死に、ある者は勝ち、ある者は負けました。
20世紀のおぞましい2度の大戦で学んだことは何だったのでしょうか。
私たちはあらゆる戦争もテロも、攻撃も非難します。
このような行為を繰り返せば、さらに憎悪は増幅し、悲しみは世界中に広がるでしょう。
「平和が訪れる」という希望は、私たちが方法を間違えば、単なる幻想です。
私たちの国(いや私たちを含めて)は、下りれないゲームに参加してしまっているのかもしれません。
私たちが平和を求めれば、私たちのライフスタイルは悪くなる可能性があります。
もしかすると、私たちはトイレットペーパーが使えなくなる可能性すらあるでしょう。
しかし、私たちは、自分の子どもが傷つき、自分の家族が殺されても、「欲しい」と言えるでしょうか。
私たちには、一人一人に覚悟が求められています。
政治的な議論は多々あるでしょう。
しかしながら、とにかく今、愚かな戦争や攻撃を止めなければなりません。
その答えを、真実の仏教に求めてください。
ブッダは明確に答えられています。
真実の仏教が、今こそ人々に必要とされています。
彼らがどのような信仰に支えられているとしても、私たちはあらゆる戦争やテロ、攻撃を非難します。
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