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  喜びを忘れてないか

2010/10



 良いことがあるから喜ぶのではありません。何かをもらった時にだけ御礼するのではありません。私たち佛立信徒が交わす挨拶は、「ありがとうございます」。

 良いことがあっても、悪いことがあっても、この言葉から離れてはいけないと教えていただきます。

 本物のご信心を持っているか、あるいはそうではないかは、実はその人の顔を見れば分かるのです。特に、御法門を聴聞する時のお顔、ご奉公の話をしている時の表情や態度を見ていれば、その人の信心が分かります。

 開導聖人の御教歌。
 よろこんで聞かぬ位のこゝろにて 何の願ひのかなふものかは

 佛立信心の判定基準は「喜び」です。誰の人生も悩みはあります。そこで元気を失い、覇気も無くし、ブスッとしてる、下を向いているというのでは仏教徒と言えません。そんな時こそ思い出してください。

 天台大師の偉大な後継者の一人、妙楽大師の御指南には、
「障り未だ除かざる者を怨と為し、聞く事を喜ばざる者を嫉と名づく」
と「怨嫉」の本質をお示しになられています。つまり、外から来るものだけを「怨嫉」というのではなく、聞くことを喜べない自分の心の内側に「怨嫉」の正体がある、と教えていただくのです。

「自ラ喜ビ難キ。コレ罪障ナリ」
「喜んで聞かざるは仇」

と開導聖人はお示しです。喜びが無いということは仏道修行をしている仲間のようで、実は反対側にいる「敵」のようなものだと仰せです。喜んで聞けなくなったのは、自分の蒔いた悪い種が芽を出して、邪魔をしている。それがあなたの罪障の正体、それが怨嫉なのです。

 罪障に負ける訳にはいきません。魔や慢心が前面に出てしまっては罪障に負けていることになります。注意しなければなりません。

 喜びの中でご信心することこそ、最大の修行です。自発的な喜びを持つのは至難の業で極めて難しいものです。自分自身の内側にある罪障が相手なのですから、簡単なはずがありません。

 最初の頃は機嫌良くしていても、少し慣れてくると心は変わります。凡夫にとって感謝や感激は長続きしません。周囲から優しい言葉をかけられたりしている間は喜んですることもできるのですが、都合の悪い事が起ころうものなら即座に逆のエネルギーが働き出します。ご信心では、さらに強く反作用が働きます。これが罪障なのです。

 残念ながら、末法ではそうした場面に頻繁に遭遇します。いくら正当性を主張していても、随喜を失った人は罪障に呑まれています。善悪正邪の壁を越えて、「喜び」が基準なのです。喜びを失った者は、瞋恚や愚癡に食べられてしまった者ということになってしまいます。

 末法は、困難なことの方が多いものです。「難甚だし」とあります。私たちの人生も、困難が多いのはよくお分かりになると思います。

 ですから、その困難な時こそが、ご信心の本領発揮の時、ご信心の強さや弱さが見える時なのです。苦悩しながらも、ご信心があれば喜びや感謝を失わず、そこに立ち返ることが出来ます。ここで本物と偽物、御利益の有無が見えます。

 喜びのあるご信心、喜んで御法さまの教えをお聞きするご信心が、ご祈願を成就し、困難や苦難をも一大御利益へと変える力を持っています。どんな時でも喜びを捨てないことが大切で、苦しいから、悔しいからといって、大切なものを失ってはいけません。

 自分の命と向き合っている奈々ちゃんや晃子さん、芽衣ちゃん。本人やそのご家族は、厳しい現実に直面してもなお、感謝や喜びの言葉を口にされています。そこに御仏の本当の教えや御法さまの光が見えます。眩しいほどです。

 泣いていても一日。しかめっ面をしていても一日。笑顔でも一日。喜んで、感謝して過ごしても人生の貴重な一日であることに変わりはありません。そうであるならば、御題目をいただいている私たちは、感謝して、喜んで、ご奉公します。

 不幸が続き、不運に陥ったなら、嘆きたくもなります。それが普通、正常です。しかし、いま目の前に出てきた事象の原因は過去にあり、結果を嘆くだけでは意味がない。ただし、分かっていても出来ない。それも分かる。しかし、私たちは、「結果」ではなく「原因」を見る。

 過去は変えられませんが未来は変えられます。苦境にあっても、未来のために、笑顔で、喜んで、幸せの種まきに努める。まさに、前に進むしかありません。しかし、前に進めば、必ず未来は変わるのです。

 法華経で説かれた菩薩像とは、「泥まみれの菩薩」「唱える菩薩」「笑顔の、喜びの菩薩」でした。一般的には、美しい衣服をまとい、沈思黙考する穏やかな菩薩を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。

 本化の菩薩方とは、末法の娑婆世界を自ら選んでお出ましになり、気難しい人間たちが織りなすドロドロの渦の中に飛び込んでご奉公される方々です。泥中を厭わないから汚れ役も買って出られます。

 さらに、本化の菩薩方は、常に黙しているよりも、声なき悲鳴に耳を傾けながら、こちらから声を発してゆかれます。あちらの反応を待っている方々ではありません。

 唱え導く方々。声を発する菩薩たち。それが私たちが目標とする本化の菩薩の生き方、ご奉公です。

 そして、本門佛立宗の菩薩とは、笑顔の菩薩、喜びの菩薩なのです。どれほど賢くても、正論を説いていても、顔をしかめていたならば、それは佛立菩薩ではありません。現在の幸不幸に左右されず、全てを必然と受け止めて、感謝を忘れない人、喜びを忘れない人が佛立菩薩です。

 開導聖人の御指南に、
「この障りを除きて、喜んで説き、喜んで聞き喜んで口唱読誦する者、喜んで法筵を設け、喜んで供養し、喜んで人を誘引して参詣し喜んで供養を受けする者、法華経の持者、弟子檀那の菩薩なり」
とお示しです。信行ご奉公の前に、全て「喜んで」と置かれています。つまり、喜びの有無こそが何より大事な分岐点なのです。ご奉公をしていても喜んで出来ていないのであれば何らかの改良が必要です。

 まず、住職や教務を見て下さい。苦労や困難の中でも喜びを忘れずご奉公に励みます。菩薩の誓いを立てた一人一人が、率先垂範して苦労の中でも喜びの心を忘れない本化の菩薩を目指しましょう。

 喜んでするから幸せになれます。いま、喜びを忘れていませんか。



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