宇宙が誕生する以前から真実は負けたことがありません。だから、真実の道を、真実に生きることが佛立信者の生き方です。
それは、周囲の反応次第で生き方を変えてゆくのではなく、人間として、何を為すべきなのかを 知って生きる、為すべきことを 為していく生き方です。
空気の読めない「KY」や機微が分からない人間では困りますが、何かを受けて自分の行動を起こす「リアクション型」の生き方では幸せになれません。むしろ、その生き方が不幸の原因になります。
どれだけ人の間を取り持つことや立ち回り方が上手になっても、心に「芯」がなければ八方美人や太鼓持ちだと揶揄されても仕方がなくなります。単なる「いい人」は「どうでもいい人」と紙一重で、そればかりか、そうした「いい人」は凡夫の悪い癖を放置して、増長させる存在になってしまいます。
人間として為すべきことを知る。それが真の仏教徒であり佛立信徒。リアクションではなくアクションで生きるのが私たちの目標です。
ずる賢いことをして儲けた人を羨んでも意味がありません。嘘や虚飾で何かを築いても、それこそ砂上の楼閣です。厳しい社会生活の中ですら、真実は負けません。
「呑気なことを言うな。世の中は悪いことをしても勝ち残った者が勝者だ。そういう者たちが歴史を作ってきたではないか」
そんな声も聞こえます。しかし、この言葉はすでに真実は負けないことを表しています。悪いことは隠せません。この世界では、必ず真実が明らかになってゆくのです。手段を選ばすに戦うのは、結果を得る前に結果を手放しているのと同じです。「原因」「プロセス」にこそ、改良の余地、改善の余地があります。誰かのせいにしても、奇策を弄しても、仕方ありません。
人生は三日よりは長いはずです。三日天下では勝者とも言えません。仏教徒にとって三日などは人生の日数にも入りません。三世が勝負の定規です。ですから、私たちが真実の道を真実に歩もうと努めるのは、それ以外の生き方では得るものも残るものもなく、結果的に自分が苦しむことになるからです。
嘘をついても、見た目や表面を繕っても、真実は真実。いつかは明らかになります。それぞれ必ず報いがあります。
どんな生き方をしてきたのか。どんな生き方をしているか。今日、ここで立ち止まって、考え直してみるのもいいと思います。
本当に花の好きな人は土や根の大切さを知っています。美しい花に囲まれた幸せな人生を望むなら、自分の土や根がどのような状態であるかを知らなければなりません。土は痩せ、根が枯れているのに、花や実を待つのは愚かな話です。
妙深寺では八月の末に得度式がありました。未来を担うであろう二人の青年が出家いたしました。
剃髪の儀。切腹に臨む侍の如く、白衣に身を包んだ二人に向かって師僧が得度の覚悟を問い糾します。これに新発意の二人が応えます。
「今、汝等の為に頂髪を浄除せんや否や」
「唯願くは浄去せしめ給え」
「今身より仏身に至るまで、本門の本尊を、持ち奉るや否や」
「能く持ち奉る」
「本門の戒壇を、持ち奉るや否や」
「能く持ち奉る」
「本門事行の要法 本門八品所顕、上行所伝、本因下種の題目を 能く持たんや否や」
「能く持ち奉る、南無妙法蓮華経、
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
本堂に、彼らの声が響きます。その決意を聞き届けた後、剃刀を頭に当て、お祖師さまがご引用の左記の経文を拝誦して得度を許可します。
「流転三界中 恩愛不能断
棄恩入無為 真実報恩者」
流転する生命には、様々な恩や愛が生じます。それはそれで大切なもの。しかし、多くの人が次々に生じてゆく恩や愛に左右されて、本当に大切にすべきものを忘れてしまいます。
恩愛に振り回され、迷い続けてきたけれど、今日から私は、恩愛への執着を棄てて、真実の生き方、真実の恩に報いる者となります。これが前述のお経文です。人生をリセットする、生き方を転換する、その覚悟を表した強い言葉です。
しかし、得度式で行った問答や強い決意の表明は、私たちが日夜ご宝前に向かってお唱えしている無始已来の御文と同じ内容で実は特別なものではありません。
「今身より仏身に至まで、持 奉る、本門の本尊、本門の戒壇、本門事行、八品所顕、上行所伝、本因下種の南無妙法蓮華経」
つまり、本門佛立宗のご信者は、ご宝前に向かうたび師僧に覚悟を問われた白衣の得度者と同じです。この得度式は、あらためてそれを姿形に表したに過ぎません。
仏教徒・佛立信者になるということは、生き方を改めて、人生をリセットして歩み出すということです。真実の道を真実に歩む決意、枝葉のように広がる恩愛に迷わず、真実の恩や愛から離れない決意を抱いています。私たちは、これを日夜にご宝前に言上し、自ら誓い、確認しているのです。
出家でも在家でも、この覚悟を風化させず、衰えさせずに持っているかどうかが大事なのです。
ご信心に出会い、一度は人生をリセットしたつもりでも、新しい恩愛に振り回され、引きずられて、真実の道から離れてしまうことがあります。感謝も感動も、覚悟も決意も忘れてしまう。
真面目にしていても意味がない、バレなければ大丈夫、楽しければいい、とご信心に出会う前と同じように考えてしまう。真実の道や功徳の道を、面倒なものだと切り捨ててしまうことがあります。
実は、末法は、それが普通です。欲深く、誘惑も多く、自分は弱い。師も凡師、弟子も三毒強盛の悪人。疑って当たり前、迷って当然です。修行がしにくい、続けにくいのが末法という時代です。
しかしここで負けてはいけない。時代や性質のせいにして、真実の道から逸れてはいけないのです。それでは、また悪循環の中に流転してゆく人生が続いてしまいます。
見栄や体裁で生きない、背伸びしない、そこで勝負しているからいつまでも弱い、とにかく脆い。
まやかしの説は笑顔で受け流し、驕らず、腐らず、諦めず、真実の道を真実に行ずる。何も怖くない。そこで生きるから、強い、明るい。
泣きながらでも善いことをする。リアクションではなくアクション。自分に負けず、真実の道を歩め。
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