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  受け継ぐということ

2010/6



「古い都の京の町も、時代の流れと共に、その町並もおいおい変わりつつあります。

 紅がら格子の京独特の町屋のたたづまいも、だんだん少なくなり、古い物が消え、新しい物が姿を見せ、何か京都らしさが無くなってまいりました。

 開導聖人ご晩年の御館、お祖師さまの身延にも相当たる麩屋町の、今の長松寺も何とか大尊師ご在世当時の姿を残したいと考え、家内と努力して参りました。

 けれども、何しろ古い建物であり、なかなか護持することが大変でありましたけれど、何とか今日まで、ご在世当時の原形を保つことができ、喜んでおります …」

 右は今から約二十五年前の七月に書かれた長松日峰上人のご所感です。ご存じの方も少なくなったと思いますが、長松日峰上人とは先住の慈父であり、私にとっては偉大なる祖父であります。

 言うまでもなく、京都麩屋町の長松寺は、佛立開導長松清風日扇聖人が晩年を過ごされたご法宅で、「麩屋町の御館」、「宥清寺奥の院」とも称されました。

 明治十七年二月十一日、宥清寺の全権をお弟子の現喜師に委ねた開導聖人は、既に借り受けていた麩屋町に居を遷されました。

 麩屋町ご転居から、開導聖人は身延入山後の高祖、勧学院建立後の門祖と同じように、本門佛立講の弟子信徒に対して未来を期した最重要のご教導を開始されました。

 特に、「五五の御指南日」は遅参者の入室を許さず、無断欠席者は即除名という厳しいもので、佛立教学と信行ご奉公の真髄を御指南くださいました。

 開導聖人は、この年から慈母のご命日である例月四日に御講席を開かれ、ご遷化月の明治二十三年七月十六日(ご体調の都合で順延)まで願主としてご奉公されました。

 麩屋町の御法宅も、開導聖人の御講席も、今年で一二六年もの間、開導聖人から長松品尾、長松日峰から長松清凉、先住から現在へと、絶やすことのないように護持し、ご奉公させていただいております。その長松寺護持の感慨が、冒頭の長松日峰上人のお言葉です。

 平成五年二月、先住が「貫と徹」と題した文章をご紹介します。

「信心を貫く・信心に徹するとか、よく使う言葉ですが、簡単なことではありません。

 貫いているつもりで貫いていない、徹しているつもりで徹していなかったりする場合の方が多いのです。

 貫くとは、始めから終わりまでつづけ通す、一定の方針で行いつづけ、しとげることをいいます。

 ですから、信心を貫くとか、信心に徹するとかいいますと、常に心に抱いて、決して信心を忘れないことをいうのであります。

 母の晩年に次のような事件がありました。

 京都・長松寺の奥まった蔵の裏側に当たるところの半坪ほどが、隣接の家屋新築に伴い、新しい塀がこちらにくい込んで建てられました。

 母は、実生活にはなんの影響もないところでありましたが、弁護士に依頼して、すぐ撤去してもらうことを頼みました。

 京都の奥まったすみの境界線問題はなかなか厄介で、裁定が難しいとのことで延び延びとなり、時効成立の三年が過ぎました。

 しかし、母は引き下がることなく、『責任役員会』として、なんとか対処して欲しいと食い下がりました。

 態勢に影響のないところであり、交渉の相手が悪いしお金もかかるということで、諦めていただこうということに決しました。

『今日までお預かりして、たとえ一坪でも増えたならよろしいえ、それが、たとえ半坪とはいえ減らしましたとは、開導聖人にご報告でけしまへん』と言い張りました。

『わての葬式代はいらしまへんさかい、取り戻しとおくれやす』と再度弁護士に使いを立てて、ささやかなものにしろ、いつも手土産を添え、時あるごとに通わされました。

 町内保管の古地図・測量図など持参して、『とにかく裁判おこしとおくれやす』といい、御宝前でのご祈願が始まりました。

 お線香三千七百本余りのころ、『おばあちゃんには負けましたわ。取り戻せましたで』と弁護士からの知らせが入りました。

『あんたらここへおすわりやす。いつもいつも、祈りて祈りの叶わぬことはないと、御法門でしとおいんどっしゃろ。よお覚えとおき』とピシャリ叱られました。

 どうも我々は、状況判断が先行して、貫徹できないところがあるようで、ここが反省のしどころです」

 凄まじいまでの気迫で、まさに命懸けで長松寺を護持されてきたのだと痛感いたします。

 当月、長松寺は御講尊の御唱導をいただき、開導聖人の御正当会、併せて二世日聞上人の百回御諱を勤めさせていただきます。この日の記念に日聞上人最後の御法門をお配りしたいと考えております。当紙面では一部のみご紹介します。

「親の心知らぬ子は極道多し、親の苦労を累ねて蓄へしを見て居る子は極道少し。三代目と云へば其の親の苦労を話に聞く丈け位にして事実を知らぬ故に極道する也。世の諺に売り家と唐様で書く三代目といふ事あり。当講は恰も三代目に今度当るなり。予は第二の譲りを受けて是れと云ふ効もなけれども、我が弟子が東京や大阪神戸等に力をつくして弘めたることは実に大尊師もみそなはせられて、御賛美あることと思ふ。三代目に当る信者といひ、弟子といひ、心を合せて一同に異体同心の実を挙げて貰ひたい。(中略)

 自分が神戸に行きたる事は汽車や人力車が如何に身に障らうがそれで死のうが生きようがかまわぬ、どうせあかぬ身なれば一遍でも御法の為に間に合わせてと、決心してする此の御法門なれば是非是非御同前に心腑に染めて聞けよかし。是が私の法門の終りかも分らぬ。

 鳥の当に死んとする時、その声あはれ、人の当に死んとする時の其言ふ事よしと、今予の此の言ふ事後になれば分る、彼の時の法門は異体同心の御法門なりし、あれが終りで有りしかと覚えておいて貰ひ度い。御法大事と思ふに其の外に何の願ひもなし。其の積りで忘れぬ様にせよかし」

 厳しい御遺言に現状を恥じます。

 長松寺護持の責を負う者として、姿形は無論、そのお心、魂を守り、受け継ぐことに身命を賭したいと思います。守り、伝えてゆきたい。



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