産業構造が変わろうとしている。多くの企業はこの大変革の渦中にあり、そこに働く人々も、まさに生死を懸けた戦いを続けている。
ビジネスの環境は変わっていく。新技術の開発や新しい素材の発見、社会的な欲求から競合他社の動向まで、様々な外的・内的な要因が人々に止まることを許さない。
最近、特に注目されているのが自動車に関連する産業で、歴史的な大変革の波が押し寄せている。ガソリン車からハイブリッド車、プラグインハイブリッド車や電気自動車に切り替わる時、それまで大きなピラミッドを形成していた産業構造、自動車会社から傘下の下請け企業に至るまで、根本的な技術革新を余儀なくされる。
恐ろしいほどのスピードで革新と開発を求められている。世界中で開発が進められており、永年の取引先ですら地位を失う可能性があるという。情け容赦もない。
永年培ってきた技術や、改良を加えてきた製品が通用しなくなる大変革の波。感傷にひたっている間もない。自動車会社がエコカー開発に邁進する中、下請け企業は「オール・オア・ナッシング(全てか、無か)」という極めて厳しい営業努力を続けている。新興企業に先を越され、次の時代の車作りから外されないために必死だ。
若い頃、渡米してロサンゼルス郊外の小さな工場を訪れたことがある。小さな倉庫にスーパーカーが並んでいた。こんな場所で車を作っているのかと驚いた。米国のモノ作り現場の情熱は凄まじい。インターネットで巨万の富を得たグーグルは電気自動車の開発へと投資を始めた。今後、どのような会社から次世代の自動車が出てくるか分からない。全てを得るのか、全てを失うか。開発競争の中で、そこで奮闘する人たちのギリギリの努力を思うと、手に汗がにじむ。
こんなことばかり書いていると「住職らしくない」「分からない」と叱られそうだが、許して欲しい。昨今の社会情勢を知り、その中で大変革に真っ向から挑んでいる方々を尊敬し、応援し、そこから私たちも学ぶ必要があると思う。別世界の話では決してない。
生き残りを懸けた戦い。危機感や悲壮感を持って前に進み出そうとする人々。ほんの数年間のことだったが、私も同じような緊張感や危機感を味わった。仕事が失敗すれば明日の糧を失い、社員への給料も、家賃も光熱費も払えない。「オール・オア・ナッシング」の危機感。とても楽観的な気分ではいられなかった。それでも何故か心が穏やかでいられたのはご信心のお陰だと思う。本当に、不思議な御縁やサインに恵まれていた。
危機感と安心感。バランス良く二つを両立しなければ、ご信心も人生も成就しないと思う。
現状維持が悪いとか良いとか、そうした精神論を言っているのではない。危機感だけでも人は不幸だし、安易な安心感だけでも人は不幸になってしまう。信心が素直で正しいなら、厳しい社会の現実にあって、二つの心のバランスを上手に取ってくれるはずだ。そのことを知っていただきたい。
人生は平坦ではない。人生は坂に違いない。最後の日まで人生が充実していたと言える人は少ない。若い頃あった気力や体力は年齢とともに衰える。これだけ考えても臨終の時、晴れやかに、清々しく、幸福でいるためには相当の努力が必要だと分かる。放っておいたら、人生とは陰鬱なもので、孤独で、寂しいものになると思う。
だからこそ人は努力する。世は無常で止まっているものは何一つない。全て、流れている。自分も容赦なく流されている。奢れる者も久しからず。大名商売もいいが、努力を惜しめば長くは続かない。人も、景気良く元気な時はいいが、それに陰りが出ると離れていく。
危機感の欠如は破滅の因となる。幸せを掴めば、この状態が続いて欲しいと願うが、執着心ばかりで努力をしなければ幸せは失われる。人生は坂。現状に止まるのも相当な努力が必要になる
いま、自動車関連企業の多くが、大変革の中で必死の攻防を続けている。「こんな日が来るとは思っていなかった」と、涙ながらに語る担当者は「それでもやるしかない」と決意を口にした。自動車産業に学んで、他の業種も、他の人々も、危機感を抱いて努力を惜しまない生き方を実践していくしかない。産業構造の大変革の前に、誰もが呑気に構えてはいられないことを知っていただきたい。
官僚機構が批判を浴びるのは、システムやルールに守られて危機感を失い、社会の実態からずれていくからだろう。宗教界が批判の的となるのは、「教え」に守られて、同じく危機感を持たず、楽観的か保守的になって、人々の生活から乖離してしまうからだ。こうした悪循環の中に陥れば宗教者として使命を果たすどころではない。
私たちは、「末法」という世界の恐ろしさを教えていただいている。強い危機感を持って立ち向かっていかなければ、正しい仏法は埋没して消え、人々の心の闇を照らすことが永遠にできなくなる。
私たちは、自分自身の中に潜む「三毒」の恐ろしい働きを教えていただいている。油断していれば仕事であれ家庭であれ、何もかも失ってしまうことを知っている。
強い危機感を持って立ち向かうべきなのは、ビジネスマン以上に私たちではないか。御題目の尊さ故に油断が生じているとしたら、きっと大きな落とし穴にはまる。「こんな日が来るなんて」と嘆くのではなく、常日頃から油断なく、覚悟を持って、真剣に、御題目をお唱えし、ご信心させていただくべきだろう。
何が起こっても不思議ではない。相手が三毒に冒されて狂う、怨む、嫉み、裏切る。理解されず、誤解され、不当な批判を受ける。「それでもやるしかない」と、泣きながらでも立ち向かう。それが末法、今の世界の情勢なのだ。
むしろ、恐ろしいのは自分の心。そうでなくても煩悩が勝つ。慢心が出る。自分の勝手な考えが先行する。余程の覚悟、余程の警戒心で、信心を改良してゆかなければならない。朝夕、御題目をお唱えすることは、この世界、この自分だからこそ、欠かせないはずだ。
順調な時に驕らず、苦しい時に折れない。それが佛立信者の培う人間性。危機感と安心感を抱いて、それぞれの人生の中で、佛立信者としての真価を発揮する。仕事や家庭、人間関係の中で、私たちは、決して驕らず、決して折れない。信心が偽物なら、こうはいかない。
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