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  おくりびと

2009/5



 アカデミー賞・外国語映画賞を受賞したことで、全世界から注目を集めた映画「おくりびと」。各国で上映され、高い評価を得続けている。暗いニュースばかり溢れる中で、久しぶりの朗報となった。

 日本映画として初めてオスカーを受賞した快挙に日本中が沸いた。世界が認めたその映画の内容とは、実は日本人ですら馴染みの薄い、ある職業に関するものだった。

 主人公は東京で夢に破れ、妻を連れて生まれ故郷である山形へと移り住む。就職先を探している中、ふと目にとまった求人広告。「旅のお手伝い」と書かれていた広告に、旅行代理店だと思って面接へ行く。

 面接を受けてみると、その業務内容とは「旅」は「旅」でも「死出の旅」をサポートする葬祭業、特に遺体の「納棺」をする仕事だった。

 親の遺体すらまともに見たこともない主人公は戸惑うが、社長に連れられて仕事を始めてゆく。

 映画は、現代で社会の片隅へと追いやられている「死」とそれに関わる人々や出来事を描き出した。

 本来、あらゆる人間にとって「死」は欠かせない通過点であり、誰もが経験してゆくものである。しかし、今やそれらは病院の中に閉じこめられたり、特別な人々にのみ委ねられたりしている。見て見ぬふり、本能的に忌み嫌われて、敬遠しがちな世界が、最も身近で遠い「おくりびと」の世界ということになる。

 履歴書にも目を通さず、二万円を渡されて即採用となった主人公。月給は五十万円と言い渡される。特に仕事のあてもない彼は、迷いながらも就職することになった。

 最初の仕事で、孤独死した老婆の遺体を納棺する。数週間を経過した遺体に身も凍るほどの経験をしたが、幾たびか「死」や「遺体」と向き合って仕事をしてゆく中で、充実感や使命感を抱いてゆく。

 嘔吐するほどの経験をし、死臭が気になり、銭湯に行って鼻の中まで石けんで洗っていた主人公が、遺族と共に死者の尊厳を守りつつ、「死出の旅」へと送り出す仕事に感動を覚えていく。

 彼の仕事の内容を知って、妻は「穢らわしい」と言って出て行き、友人も「挨拶せんでいい」「もっとマシな仕事さ就けや」と言い放つ。しかし、その友人の母の死などを通して、彼らも彼の仕事に畏敬の念を抱くようになってゆく。

 納棺をする主演の本木雅弘氏の演技が美しかった。タブー視されがちな世界やそこに生きる人々を、ユーモアを交えて紹介してくれた。山形の田舎の小さな物語は、世界の人々の感動を誘った。「死」から学ぶことがある。「死」を除外した「生」などあり得ない。

 「先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」とお祖師さまが仰せになられたことを忘れてはならない。

 しかし、「涙が止まらなかった」「感動しました」という観客の声を聞きながら、「ちょっと待てよ」と思う。この映画には僧侶の姿が見当たらない。出ているとしても、付け足しのようなものに過ぎない。やはり、何かおかしくないか。

 私たちにとって、「おくりびと」は珍しい話ではない。世間は忌避していても、本物の仏教徒は今も身近に死を見ているし、ご信者の中に亡くなった方がいれば特別なことでもなく駆けつけ、深夜でもその家に伺って枕経をさせていただく。「寂光で開導聖人にお目通りするのに、病院の浴衣では申し訳ない」と、生前の礼服に近い物をお召しいただく。私が補助講師で最初に教えていただいたご奉公は、ご遺体にお洋服を着けていただくことだった。僧侶だからではない。

 ご信者の皆さんと一緒にご遺体の枕もとで御題目をお唱えする。硬くなった身体は柔らかくなり、お召し替えをさせていただいたり、手にお数珠をかけさせていただいたり。このご奉公も教務とご信者さんでさせていただいてきたのだ。

 俗習のような、頭への三角布や手甲も脚絆も着けない。頭陀袋に六文銭など入れもしない。それは本当に仏教なのかと首をかしげる。御題目のみ。これが、普通なのだ。

 法号も死後に買うものではなく、故人の生前の功徳でいただくもの。何より、ご信心がなければ意味がない。生死に一貫しているものが信仰なのだから。

 本門佛立宗のご信者さんたちは、社会から敬遠されがちな場所や人の所へ、率先して出向いてご奉公してきてくださった。

 親しくない方でも、ご病気の方がおられると聞けばお伺いをしてお助行し、ご祈願する。貧しい方のお宅でも、その方が苦しい状態から逃れられるように心を尽くす。

 ご信者のご家族の訃報を聞けば、忙しい予定をやりくりして、枕経からお通夜、お葬式まで一生懸命にご奉公される。葬儀屋さんではない。「無償」の「ご奉公」である。これらは「おくりびと」の何万倍も有難いではないか。本門佛立宗のご信者方こそ、本当の「おくりびと」であり、目には見えないがアカデミー賞に輝いているはずだ。

 しかし、映画に僧侶の姿はない。それは映画の原点といわれている青木新門氏の著書「納棺夫日記」を読むと理由が分かる。そこには、実際に「納棺夫」として数多くの葬儀を見てきた著者の、葬式坊主と堕した僧侶への軽蔑が記されているし、世にある信仰への懐疑的な姿勢が明らかにされている。

「『死』は医者が見つめ、『死体』は葬儀屋が見つめ、『死者』は愛する人が見つめ、僧侶は『死も死体も死者』もなるべく見ないようにして、お布施を数えている」

 恥ずかしながら、僧侶の堕落は世の人の知るところだ。しかし、本門佛立宗の教講にこれは当たらない。私たちは、「死」も見つめ、「死体」も見つめ、「死者」も見つめる。これが、佛立の文化であり、教えであり、真実なのだから。

「納棺夫」だった著者の経験は尊敬に値するが、親鸞に傾倒し、特に、御題目のご信心を屈折して見ていることが哀しい。全般に、広範な知識がありながら、隠者の自己解釈が目立つ。現場に徹した著者に指導できる浄土真宗の僧侶はいないだろう。死者への理解はできても他者への理解は難しい。やはり、仕事は仕事なのだろう。

 葬儀社は進化している。遺体のお召し替えや湯灌等、もう素人の出る幕ではないところまできた。しかし、佛立信仰は色あせない。私たちは、仕事ではないところで、亡くなった方を寂光にお送りする。

 今や「おくりびと」の充実感や使命感を抱いている佛立の信者が少なくなってきたかもしれない。それではいけない。もったいない。どうか、誇りを取り戻して欲しい。



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