身に危険が迫れば、自然に防衛本能が働くものなのだろう。世界経済も悪くなれば保護主義に傾く。今や他国や他の人を気づかうより、我が身を守ることだけで精一杯にならざるを得ない。
世が荒めば人の心も荒む。自己中心的になり、何事も人のせいにする傾向が強まり、身近な人との気持ちのすれ違い、誤解が増える。話を聞くにつけても、誰かが誰かの苦情を言ったり文句を聞いたり。昨今の社会情勢を背景に、そんなことばかりが異常に増えていく。
不幸な出来事に遭遇して怨み節を言う人。「なぜ」と自問自答して、結局答えが分からない。「悪いことなどしていないのに、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないんだ」。世の中の理不尽さ、他人の冷たさや理解の無さを恨んでも、気持ちがすり減ってしまうだけで何も生み出さない。だからこそ、仏教的な生き方を身につけたい。
罪障の自覚の無い人は、仏教徒ではない。「カルマ」という言葉が世に氾濫しているが、正しい意味を理解している者が少なすぎる。末法の凡夫というのは、この自覚を失い、欠落させている。だからこそ、「三毒強盛の凡夫」と呼ばれ、個々人の欲望と怒りと愚癡蒙昧の性質に人生を翻弄されてしまう。
私たちの行いの全て(身口意の三業。つまり、「思い」も含む)は、アクションを起こした瞬間のみで消えてゆくものではない。やったこと、言ったこと、思ったことは、消えずにそのまま残ってしまう。考えてみれば恐ろしいことだが、それらは「種」となって自分自身の魂、心の奥底に貯蔵されてゆく。思い、口から出る言葉、所作振舞、あらゆる行為行動は、すべて「種」となって魂の土壌に蒔かれている。
その種がいつ芽吹くのか、天候や状況にもよるが、私たちの行動が「種」であることには違いない。
最近はガーデニングや家庭菜園を楽しむ人が多いが、お花や野菜を作ったことのある人ならば、「種」の凄さを知っているだろう。土は同じでも、数ミリでしかない小さな「種」。しかし、その違いによって様々な花や野菜が育つのだ。数万種にも及ぶ小さな種の違いは、余程の専門家でなければ見分けることが出来ないだろう。しかし、それが植えられ、環境さえ整えば、蒔いた種は必ず芽を吹き、蒔かなければ生えてはこない。
御教歌
わするなよ まかぬたねなら はえもせず
まいたたねなら はえるものぞと
いま起きている出来事は、全て自分自身の蒔いた種(因)により、芽を出した結果(果)という宇宙の真理、普遍の法則、因果の道理。このことを「果報」とも「罪障」とも「カルマ」とも言う。
私たちは、つい「バレなければいいではないか」と思ってしまう。しかし、一つ一つの行為行動は「種」になって毎日毎時間、刹那刹那に、心の土壌に降り積もっている。一日に八億四千万回以上の種を蒔いているとの御指南もある。
悪い種は悪く、良い種なら良く芽を吹いてゆく。「善因善果・悪因悪果」とはこのことである。三毒がもたらす身勝手な「行為」が「種」となって振り蒔かれていることを知らなければならない。それらが次から次へと芽を吹いて、人生を左右し、翻弄すらしている。この事実を知り、受け入れるのが仏教徒である。
イヤな出来事が続いても、その「出来事」には間違いなく「原因」がある。目の前に出現した出来事には「種」がある。それは誰でもなく自分が蒔いた種であり、悪い種や根や芽を抜き取って、良い種を植えてゆかなければ真の幸せは訪れない。
嘘を言えば、嘘を言った相手に嘘をつき返されなくても、いずれ誰かから嘘をつかれる。人を殴る。その相手から殴り返されなくても、いずれは誰かから殴り返される。悪口や陰口も同じ。誰かを騙してお金を手にしても、いずれ誰かに騙されてお金を手放すことになる。
仏教とは単に倫理や道徳を説くものではない。「良いことをせよ」「悪いことをするな」では不十分であることを知っている。末法の凡夫とは、自分の欲深さに負けて、善なる行いは僅かで悪しき所作は圧倒的に多くなるからであろう。それでは結局人生を空回りさせ、悪循環の生き方が続いてしまう。
何が大切か。物事の本質、目の前で起こる出来事の「理由」「原因」が見えていない生き方こそ不幸で、それで一喜一憂しているから不安なのだ。「良いことは自分のおかげ、悪いことは他人のせい」こそ誤り。悪い出来事、悪い状況が訪れても、全ては自分の蒔いた種という真実を見据えるべきで、その上で、今自分の蒔いている種が、どんな種なのか考えるべきだ。
御教歌、
何事も たねが大事ぞ 成仏も
本因妙の たねにあらずば
善事を勧め悪事を懲らすという勧善懲悪だけでは不十分な生き物が人間である。だからこそ、「最高最上の種まき」に行動を起こせと教えてくださる。私たちは、本因下種の御題目をいただいている。その名の通り「南無妙法蓮華経」の御題目とはこの上なく尊い種、御仏が全ての功徳を込められた「本因妙の種」である。
因果の根本にある「本因妙の種」。それぞれ抱えている問題、目の前の状況も違うだろうが、幸せの種を心に収め、幸せの種まきに励むことが出来れば、必ず未来がより良く変わり、罪障の種や芽は消滅され、人生が明るく開け、輝いていくに違いない。
すべては自分の蒔いた種、誰のせいにもできない。本因妙の種を蒔き、無限の過去から抱えている悪い種と芽を摘むべきだ。
仏教はアクション、行動である。過去を恨み、他人を恨んでも意味がない。人には厳しく、自分には甘い人、他人のことはよく見える、自分のことは見えない。人間関係のトラブルはここから生まれる。人には敏感、自分のこと、自分のしてること、言ったこと、やっていることには鈍感。これが不幸の原因である。我が身の罪障にこそ敏感になって、幸せの種まきへと歩み出したら本当に明るく生きてゆけるようになる。どんな悪世であろうと、運と縁が回り出す。
御歌句、
「信心をする気が運の開き初め」
ご信心をする気になり、日々の行為行動として実践できるようになれば、運が開いていくだろう。そこに踏み出させないのが罪障。罪障に負けるな。信心に踏み出せ。
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