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  苦しみて つとむる中に

2008/6



 菩薩の誓いをさせていただくと、自分のことだけではなく、色々な人の苦しみや、迷われている姿が目に入るようになり、人生の辛酸や苦悩を目の当たりにするようになります。

 今、妙深寺の中では様々な方のために、日々お助行が続けられ、その輪が広がってきています。

 お助行がある、続けられているということは、今そこに、悩み、苦しんでいる方がおられるということに他なりません。

 特に、意識不明の状態が続いている下八川悠翔(しもやかわ ゆうと)くん。ご両親は、二歳になる我が子が、病気で意識不明の重体になってしまうという大変な苦しみの中から、インターネットで調べ、藁をも縋る思いで妙深寺を訪ねてくださった。それから、悠翔くんの意識回復のため、ご家族のために、何とかお計らいを頂いてほしいと、日々お助行が続けられています。

 戸塚教区の柴田裕一さんと朋美さんの次女、芽衣ちゃんは、先月の戸塚教区の教区御講のその日に、無事に産まれてきてくれたという喜びの知らせをもらったのですが、その後、心臓に病気があるということが分かり、そこからみんなでお助行を始めさせてもらいました。

そして先日、四時間に及ぶ手術が行われ、たった二ヶ月目の小さな芽衣ちゃんは、無事、手術を乗り越えてくれました。

 こうした方々のご家族の苦しみはどれほどのものかと考えると、まさに、身を引き裂かれるような思いがし、お看経をしていても、涙が溢れてきます。

 他にも、人間関係での苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ。ある人は、愛する我が子を、自分より先に見送らねばならない苦しみ。つくづく、これが「人間」というものなんだ、「人生」なんだと思うことがあります。

 開導聖人は御教歌に、
苦しみてつとむる中におのづから  ありとし聞けり 御仏の道
とお示しくだされています。

 私たちが「生きる」ということ。ご信心をさせていただき、罪障を消滅して、功徳を積むという道は、実はやはり苦しく辛いもの。でも、苦しいからこそ罪障が消滅できる、御利益に通じ、幸せに通じる道。それこそ御仏の道だと。楽な方に流され、道を踏み誤るな、勘違いするな、とお戒めです。

 ご信心をさせていただいたら、そこから全てがバラ色になるかといったら、そういうわけにはいきません。私たちは生身の人間。業や罪障の深い凡夫です。病になることもある。命にも限りがある。御仏ご自身でさえ、病を患われ、また、開導聖人も、たった一人のお子さまを、三ヶ月で亡くされている。それは、どれほど辛い別れだったか分かりません。

 しかし、それぞれ人間としての苦しみを抱え、そこから、それを乗り越え、力に変えて生きる姿をお示しくださっている。

 私たちの「人生」というものは、やはり、楽なことは短く、苦しいことは長い。それがこの娑婆世界で人間が生きていくということだと教えていただく。

 「苦しみ」は「ある」。ではその上で、私たちはどうすべきか。

 苦しみの世界を抜け出そうと、苦しみから逃げて楽を求め、最初に楽な方を取ったとしても、結局問題の先送りをしているだけで、後から苦しみは追いかけてくる。自分中心の考え、自分の楽や得を基準とする生き方は、結局、一生苦しみに追われる生き方になってしまうのです。

 しかし、最初にあえて苦しみを取り、今苦しい、というところをグッと受け入れて、辛抱して精進させていただくうちに、フッと苦しみから抜け出す時が来る。

 別の御教歌に、
辛抱せよまことはつひにあらはれん  しれずにしまふ悪はなき世に

とお示しです。辛抱とは、辛さを抱くと書きます。普通なら避けるべき辛さを、グッと受け止める。どんなことがあっても、あなたが恥ずかしい生き方をしていないのなら、必ず真実は明らかになる。だから今は辛抱しなさい、と。

 先住の御法門帳を拝見すると、この御教歌の側に書き込まれて、 「生きる、修行。功徳、修行。苦しい、辛い。信心ご奉公、辛いこともある。その、勤める中に果報を頂く。辛抱…辛さの内にするが罪障消滅」と書かれています。

 これは、ご信者に説くためというより、自分に向けて書かれているように思います。それは、上側に「姉の一周忌」と書かれており、先住は一番身近な姉を五十代前半で亡くされており、その悲しさ、苦しみと、それでもご奉公させていただかなくてはいけないという、まさに自分に言い聞かせるように書かれているのです。

 ある人は、「今は大丈夫」というかもしれません。しかし、「昨日は人の上、今日は身の上」で、世は無常、いつ自分に降りかかってくるか分かりません。ですから、この一生の細かい浮沈に一喜一憂することなく、信心を貫くことが大事です。「一生は苦しいことの方が多い」というなら、ここで信心決定して、み仏の道を貫いていくしかありません。

 ましてご信心をしているのなら、自分のためより人のため、と思えなければ、菩薩にはなれません。

 苦労は自分に引き受けよう、お助行に行かせてもらおう、今、苦しんでいる方のご祈願をさせてもらおう。そう思ったら、欠かすことはできません。また、時間があるからご信心するというのではなく、無い中で精一杯させていただくから功徳になる。

 こう重ねていく中に、我が身を楽にする種があるのです。

 人生は苦しい。何もできない。でも、何もできない中でも、祈ることはできる。御題目を唱えることはできる。そうして、明確にお計らいを頂戴できる道を示していただいている。それが何より有り難いではないか。

 そして苦しみを乗り越えた時、「あの時があったからこそ」と、感謝できるようになるのです。

 法華経化城喩品には、
「汝、今勤めて精進せば、まさに共に宝所に至るべし」

とお示しくだされています。今、苦しくても、勤めて精進したら、仏と共に素晴らしい所へ至ることができる。乗り越えられる。

 私たちは本当に弱い存在ですが、一人ではありません。《共に》と、お示しであります。

 今、苦しんでいる人がたくさんおられます。なお一層、お助行に気張らせていただこう。



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