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  負けてはならぬ

2008/2



 昨年は偽物や偽者が横行した。不信感は社会全体に広がり、古くから積み重ねてきた信頼が大きく揺らいだ年となった。

「ニセモノ」とは「ホンモノ」にそっくりだから「ニセモノ」なのである。だから騙されてしまう。それが「組織」であっても「お店」であっても「モノ」や「人」「宗教」であっても、一見「ホンモノ」のように見えるのが恐ろしい。疑心暗鬼に陥ることは不幸の始まりに違いない。しかし、そうならざるを得ない世の中になってしまった。

「百術は一誠に如かず」という。「百術」「様々なテクニック」より、ただ一つの「誠意」「誠心」「真心」が欠かせないと気づかせてくれる貴重な言葉だ。しかし、昨今では、「一誠」を欠き、失っていながら、何とか「術」を弄して、「先送り」「暫定処置」を繰り返している。「権威」を失ったまま「権力」で生きようするのは無理が生じる。

 いずれにしても、社会は混迷を深めつつあり、過当競争と粗利益追求の果てに「一誠」は見失われつつあり、人心を欺くテクニックだけは発展しつつある。官と民の溝は深まり、社会的な絆が失われ、誰を信じ、何を信じれば良いかが分からない、疑心暗鬼が世を覆う。

 占い師や霊媒師など、狐狸の類に頼るまでもなく、世界の情勢を見れば今年の大波乱は予想される。仏教徒ならば誰もが知っている「因果の道理」は、「現在の結果を見れば過去が分かり、今の行いを見れば未来が分かる」と教える。

 昨年が「偽」の横行ならば今年はその報いを受ける。術に終始し、本質的な問題の解決、真摯な信頼回復の努力がなければ、我が国も世界も、取り返しのつかない規模の混乱に陥りかねない。私たちの生活や安全は脆くも崩れてしまう。その混乱の足音は徐々に大きく、すぐそこに迫ってきている。

 空転国会、年金問題、原油高騰、日本経済の沈下など、昨年は問題を全て先送りにして年を越した。それらの時限爆弾は、いつ点火し、発火しても不思議ではない。

 世界的な大恐慌はいつ起きても不思議ではない。アメリカの住宅バブルの崩壊は、未だ応急処置のままで、損失の規模すら不明だ。米国政府は、借金を帳消しにする「徳政令」や緊急のカンフル剤を連発した。しかし、これも「一誠」を欠いた処置と受け取られている。ブッシュ政権ほど「百術は一誠に如かず」という言葉が似合わない政権はないが。

 切迫した問題や波乱が迫る年。重ねてお伝えしたいキーワードが「負けてはならぬ」という言葉であり、「負けん気を起こせ」というメッセージである。もはや、誰のせいにも出来ない、自分で自分を、自分で家族を守る以外にないのである。悠長に構えてはいられない。

「期待していたのに裏切られた」「信じていたのに」と嘆いても、大混乱が自分や家族を襲った時は「甘かった」「覚悟がなかった」で終わってしまう。「備えよ、常に」の標語を思いだし、生きる姿勢を立て直しておかなければならない。生き残りをかけた戦いが目の前で展開されているのに、安閑としている訳にはいかない。

「ご信心をしているから大丈夫」「御法さまが守ってくださる」というのも間違ってはいない。ただ、世が混迷し、末法の様相が深まる中で、「人事を尽くす」こともなく、「天命を待つ」ような信心前では、結局、信心修行にも怠りが生まれ、社会生活や家庭でも油断が生まれ、ご守護もお導きもいただけないということになりかねない。だから、「負けてはならぬ」と申し上げる。

 御教歌に、
 まけん気と根気と慈悲のある人は
   みのり弘むる 器なりけり
とある。本来「争い」を好まない仏教で、「負けん気」と冒頭にあるのは珍しい。しかも、「ご弘通の器」という人間にとって最高最上の人、「菩薩」にとって欠かせない資質の一つとして「負けん気」が取り上げられているのだ。「負けん気」があるか。他の二つの資質と共に、「負けん気」があるだろうか。

 法華経本門のご信心の中では、単なる「いい人」は、その言葉の前に「どうでも」が付いてしまう。つまり、「どうでもいい人」である。誰かが間違っていても放っておく、自分だけ善人や良い人ぶっている人を、「どうでもいい人」と言う。菩薩行には、「強さ」が必要なのだ。

 妙深寺では年頭に「菩薩の誓い」の立誓を勧めているが、これらは単に「優しい人になろう」という運動ではない。「慈悲心」と同時に本当の強さを培い、「負けん気」を起こしてもらいたいのだ。

 無論、「勝ち負け」にも色々ある。会社の上司、同僚、取引先、学校の友人、ライバル等々、挙げたら切りがない。そういう「負けん気」も健全な競争の上では必要だろう。

 しかし、最終的に勝たなければならないのは、自分の心なのだ。「負けん気」を向けるべきなのは、自分自身なのである。自分の悪癖、欲深さ、わがままさ、偏屈な所、エゴ、短気さ、怠け癖、等々。

 だから、別の御教歌には、
 怠りの魔軍を責て弘むべし
  まけてはならぬ祖師の御味方
とある。「自分の怠りの心、自分の心こそ、戦うべき相手だ。誰よりも怖い魔軍だ、負けてはならない、負ける訳にはいかない。私たちは祖師の御味方。負けてはならぬ」

 自分の弱点に無関心な者が仏に成れる訳など無い。自分の弱点の改良に努めずして、「ご弘通」などあったものではない。自分のダメな部分、弱い部分を知り、そこを改良し、その生きる姿をもって、末法に於けるご弘通に勝つことも出来るのである。

 開導聖人は御指南に、
「常に人に勝れんと思ふ心をやめて、徳の我に足らざる所を、憂い、徳を我が身に積みて、其の徳を 以て人に勝つときは、是を至極の勝ちと云う。まけること嫌ひ  なれば、とくをつめよ」
とお示しである。この御指南こそ、常に拝見していただきたいと思う。本当の勝ち、本当の勝ち方。

「負けることが嫌なら徳を積め」と教えていただく。体力をつける、人間としての強さを蓄える。愚痴を言う暇はない、相手を非難することもない。混乱を目前にして、とにかく人間の本業、功徳を積むことに努める。御題目を唱え重ね、お参詣に気張り、一人でも多くの人の力になろうと生きる。苦しむ人や悩んでいる人の下に駆けつけ、その人のために祈り、信心を勧め、教化に努め、育成に努めていく。これが功徳の積み方、人間の本業。

 何があっても「負けてはならぬ」、「負けてはならぬ」と固く信じて。



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