幸いなことに、数多くの現証の御利益を見せていただいてきた。家庭内の問題、仕事上のトラブル、心や身体の病気からの回復や解決、現代の自然科学では解明できない心霊現象や超常現象という分野で見せていただいた現証の御利益。
多くの御利益を振り返り、その中で最も素晴らしい現証の御利益とは何であったかと考えてみれば、「ご信心をいただいてよかった」と本人が気づいてくださる御利益、人間の心の中に佛立信仰が芽生 えてゆく御利益であると思う。
開導聖人の御教歌に、
信心の おこるばかりの 御利益は 世にたとへなき たから也けり
とある。単なる病気治しのご信心、困った時の神頼みで止まっていたのでは本当の仏教、佛立信心ではない。確かに、御題目をお唱えし、心からご祈願させていただけば、必ず御法さまは応えてくださる。しかし、そこから先が大切である。
本門佛立宗のご信心に於ける 「御利益」は、一般的に使われている「現世利益」と大きく異なる。
インテリを自称するような人は、仏教が「御利益」とか「現世利益」というのは、欲望を是認するもの、現実的で唯物的だと小馬鹿にすることがある。ある面では一理ある。
しかし、むしろ御仏の説かれた道を実践し、何の験や効果も無いとしたならば、その方がおかしいではないか。御仏のお心、願いに適わない。信仰をすれば、何かが起こる。それは当たり前のことだ。
ただ、単なる「現世」の「利益」だけなら、何故にこれほど欲深く、エゴに満ちた人を救ってくださるのか、願いをお聞き届けくださるのかという疑問も残る。たとえば、強欲で傲慢な人間の寿命を数年間延ばしたり、今までも人を傷つけ、これからも間違いや過ちを続ける人間の願いを叶えてくださるのは何故なのか。
だから、本門佛立宗の御利益は、「現証」と前に付けるのである。世間で言うところの「利益」とは断固として一線を画す。荒凡夫と呼ばれる私たちに、正しい信仰の道、上行所伝の御題目の有難さや尊さを「現に」「証明」するためにいただくのが、私たちの「御利益」なのである。故に、本門佛立宗のご信者は、常に目の覚めるような「現証の御利益」を見聞きするし、自分自身が体験することになる。
私たち人間が抱える本当の病は、病院では治らない。苦しみの原因、不安になる理由、怖さ、恐ろしさ、悩みや取り返しの付かない失敗の根本的な原因、病巣は、「ご信心をいただく」ことでしか治らない。上行所伝の御題目のご信心をいただくこと以外に、私たちが抱える根本的な病気は治らないのである。
病気が治る、事業が成功する、ダメなものがダメでなくなる現証の御利益は、ただご信心を起こすために現していただいたものだと言える。信心が起きる、ご信心が芽生える、それを人生の軸として、ブレない生き方がスタートできるということが、何よりの御利益であり、迷うことなく、人を助ける「菩薩」となってゆくことが真の「現証の御利益」なのだ。
御仏の願いはお祖師さまの願い。お祖師さまの願いは、御仏の願いである。それは、ありとあらゆる人の幸せを願い、ありとあらゆる人の苦悩を取り除こうとされる、大慈大悲の切なる願いなのである。上行所伝の御題目とは、その御仏とお祖師さまの「願い」がすべて込められた「お薬」に他ならない。だから、そのお薬を誰もが服用し、悪循環の苦悩から抜けだし、幸せの道を歩み始めること、その事業、その使命を受け継ぎ、引き継いで、御仏やお祖師さまの末の末の弟子、ご信者として、ご弘通、広宣流布のご奉公に励むことが大切なのだ。御仏やお祖師さまの「願い」「思い」を一分でも汲んでこそ「仏教徒」と言えるのだから。
仏教は「癒し」ではないと思う。仏教は「安心」なのだ。キリスト教的な発想では、疲れて傷ついた者たちが神の前に跪いて、赦しや癒しを求めるのだろう。しかし、仏教は癒しではなく安心なのだ。
本当に、ご信心をいただくことが出来れば、それは即ち「安心」なのである。もう迷うことがない、グラグラと生き方にブレることはない。良いことがあっても、悪いことがあっても、若くとも老いていようとも、「安心」をいただいて、ブレずに生きていける。
言い方が抽象的になって申し訳ないが、私はこのようにご信心を表現させていただいている。信心とは覚悟。世間一般で考えている「信心」と本門佛立宗の「ご信心」とは雲泥の差があるということを知っていただきたいのだ。本物の佛立信仰とは、世間で言うような他力本願ではなく、「現世利益」を追い求めるだけのものでもなく、もっともっと身近で、人生の一大転換となる素晴らしいことなのだ。
私は確信している。本門佛立宗のご信心をしている人は、本当に素敵だ。もちろん、所属しているだけの「ぶらさがり信者さん」ではダメだし、分からないと思うが、本物の佛立信者は、存在そのものが世界の中で輝いている。こんな素敵な存在はいないではないか。
ブレないということは、例えば当然だが宗教にも迷わない。本門佛立宗は八百万の神を否定しない。南無久遠の御文でも「地神」「水神」とあるし、諸天善神とも言上する。
ただ、上行所伝の「御題目」が現され、ご信心をいただいた以上、ブレないのである。全ての神々は御題目と共にある。あっちの神社、こっちのお寺と、迷うこともない。占いやお守りなどにも迷わない。一本、正しく筋を通すのがご信心。
人生には、様々な出来事がある。良いことも悪いことも同じように起こる。ご信心をいただいても、人間としての業である生老病死は訪れる。ましてや我が身の罪障を思えば、都合の良いことばかりが起こるはずはない。
しかし、ご信心をいただいたら、ブレない。心に迷いがなくなる。恐れがなくなる。安心なのである。
お祖師さまは、
「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」と開目抄にお認めになられている。ご信心をいただくということは、断固たる安心の境地の中で、他の人のため、御仏の御本懐を遂げて、命を輝かせること。世間では驚きもし、一喜一憂して、迷いながら果てる人生が、ブレなくなるのだ。「天に見捨てられようとも、たくさんの難に遭おうとも、この身体と命と賭けてご覧にいれる」と。
私は、何より大切な現証というのは、ブレないで生きれるようになること、なれたことだと思う。
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