妙深寺の過去帳の中に「岡 末好」という方のお名前がある。岡氏は妙深寺初代御住職、清水日博上人が当時東京乗泉寺の小石川大塚の責任講師をされていた際、教化子のようにお育てになった方である。
その岡末好氏が四国高松でお教化された方が松尾隆二郎氏。松尾氏は親戚の原伊八郎氏をお教化し、続いて松原米次氏をお教化された。昭和七年のことであった。当時、松尾氏はブラジルに移民しており、数家族がウニオン植民地に於いて本門佛立宗に入信されたのである。
ご存知の通り、現在一三〇万人といわれるブラジル日系移民は、本門佛立宗清雄寺のご信者、水野竜氏によって開始され、一九〇八年(明治四十一年)四月二十八日、奇しくも高祖立教開宗の日と時を同じくして、僅か七九八名の人々を乗せて神戸港を出港した。その船に師命を帯びて乗船されたのが若き茨木日水上人であった。
水野氏は後藤象二郎に知られて岡山県庁に勤め、その後は官界を退いて南米への日本人移民を計画。私財を投じて東奔西走し、笠戸丸による第一回ブラジル移民を組織するに至った。出発を前に費用が底をつき、大隈重信候から五万円を借りて出発できたという逸話も残されている。
佛立開導日扇聖人は、御指南に、
「地球全界の中の五大洲、あじあ、あふりか、ようろっぱ、南北あめりか、大洋洲」
と一天四海皆帰妙法の祖願達成の指針を示されていた。明治六年のことである。さらに開導聖人は、後の日教上人に帝都となった東京へのご弘通を下命されると同時に、キリスト教の研究を進めさせた。その前から日教上人は大阪でプロテスタント宣教師のウエンスから聖書を学んでおられた。水野氏はその日教上人にブラジル移民船に佛立教務一名の派遣を願い出た。
日教上人は若干二十二才の茨木現樹師(後の日水上人)を選ばれ、たった一人の僧侶が笠戸丸に乗船することとなった。二〇〇八年、ブラジルは日系移民一〇〇周年を迎えることになるが、それは即ち仏教伝来一〇〇周年、ブラジルの本門佛立宗開教一〇〇周年という記念すべき年である。
種が蒔かれ耕されてこそ、花は咲き実を結ぶ。サンパウロ市には日系移民の父、九十二才で帰寂した水野竜翁の碑が建立されてあり、茨木日水上人はブラジル開教の祖として歴史に名を刻まれている。
ブラジル最初の佛立寺院である大宣寺には「本門佛立教会 伯国大宣寺の生い立ち」という由来記が松原米次氏の手によって掲げられている。岡末好氏、松尾氏らを経てお教化された松原米次氏は、ほんの数軒の家族が寄り合って、御題目の尊さを噛み締めながら、入植地でご信心をされていた。
二年程が過ぎた頃、ブラジルのご信者が約二十軒となった。氏は、溝口氏を通じて師命を帯びて渡伯されていた茨木日水上人を知る。それまで第一回の移民者は奴隷の如き生活を余儀なくされており、日水上人ですら本格的な御弘通には程遠い状況だった。その御導師と感動的な出会いを果たされた。
僅かな家族で御導師を外護することを決意し、当初は溝口氏宅を仮住まいとして再出発のご奉公を開始された。同じ頃、佛立第七世講有日淳上人に「ブラジル大宣組」と命名いただいて初代組長に松原米次氏が就任した。昭和十一年、ウニオン親会場の建立を決意し、御有志を募って、松原氏の自宅の庭に南米最初の法城が落成した。
日博上人は、その生涯を通じて、ブラジルでの二度に亘るご奉公を人生最大の思い出とされていた。岡氏との御縁もさることながら、日水上人との生涯を通じた御縁、昭和三十年の第一回渡伯と病身で赴かれた昭和三十九年第二回渡泊。昭和四十年四月二十四日、大本山宥清寺の本堂に於いて、恩師日晨上人の御前、日地上人も立たれて、病身で痩せ衰えた日博上人は茨木日水上人をご紹介された。全ての種まきのご奉公がここに花開いた。その姿には涙が溢れて止まらない。
妙不可思議な御縁。御法さまの下、純粋なご信心を貫いてご奉公させていただけば、必ずその種は芽を吹き、花を咲かせ、実を結ぶということを証明しておられる。一日の行動、菩薩行、ご奉公は、種まきなのだ。今は実を結ばなくても、いつか必ずその芽を出して、自分では想像すらつかないほどの見事な花を咲かしてくださる。
日博上人はご存知だったろうか。岡末好氏が松尾氏を教化することを。ご存知だっただろうか。その松尾氏が松原氏を教化することを。日博上人はご存知だっただろうか。艱難辛苦の中でご奉公されていた日水上人の、松原氏が大外護者となることを。ご自身が二度もブラジルに渡られ、生涯を通じて最大のご奉公となられることを。若き日博上人は知る由もなかったはず。
種は必ず芽を吹き、花を咲かせ、実を結ぶ。今やウニオン親会場に始まったブラジル本門佛立宗は、十一ヶ寺の寺院を擁し、数多くの人々の人生の柱となり、眼となり、見事な花が咲き誇っている。
先日、私が渡伯した際に現在のスリランカのご弘通に話が及んだ。福岡御導師の偉大なご奉公を報告したが、ある功労者はブラジルに移民する際にコロンボに寄港して、種を蒔いたのですと胸を張った。
日博上人は書いておられる。
「五十年前、下された一粒の種は本国の知らない間に、人も知らない日本の真反対のブラジルで芽を出し、成長して居たのであった。開導聖人の深い教学、広大な慈悲は南十字の星の下で花を咲かせ、実を結んでいたのである。開講百年に、ゆたのたゆたに実った妙法の稲穂は黄金の波を打っていたのである。種を蒔け、遠大の計画のもとに種を蒔かねばならぬものとしみじみ感じさせられた。本仏 の種蒔と化導は五百塵点劫の過去である。今の我々はあまりに現実的、現金にすぎはしないか。これでは大きな実も、よい実も収めようがない。久遠の昔下種した本仏釈尊は三千年前に出現されて収脱した。そして末法下種を本化上行菩薩に御付嘱遊ばされた。ブラジル仏立宗も今までの実りを一応収益して、今後の新弘通を授けに行かなければならない秋が来たのであった。(中略)凡夫の目にはみえぬが深い深い因縁の糸にたぐられて、いろいろの事が起っても 結局、結果はそこへ落ち着くものである。我々の日々月々年々の出来事も、偶然のように思われるが、皆悉くこの因縁の糸にたぐられてゆくものであるという事を、深く感得したのである」(コーヒーの壺)
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