西欧の人たちが仏教に期待し、注目しているのは何故でしょうか。特に、本門佛立宗に注目し、期待しているのは何故なのでしょうか。
ブラジルのサンパウロから空路で約一時間。パラナ州の州都クリチバは、ブラジル初の大学が設置された活気のある学生の街であり、都市計画の成功事例として世界的に注目されている素敵な都市です。イタリア、ポーランド、ドイツ、ウクライナなどヨーロッパからの移民が多いこの街に、イタリア系ブラジル人であるコレイア教伯師が御住職をされている本門佛立宗のお寺・如蓮寺があります。
発展の途上にある街を象徴するかのように、如蓮寺は拡張を続け、現在は新本堂を建設中。夜の参詣では今の本堂に入りきらない人が外に溢れていました。その殆どは欧米系ブラジル人の方々で、一心に御題目をお唱えする姿に、ただ圧倒される思いがしました。
ブラジルの八〇%はカトリック。しかし、クリチバでは特に若い人を中心に仏教に対する期待と注目が高まっている、と青年会の方が話してくれました。「仏教徒です」といえば羨ましがられるほどで、「仏教を教えて」と懇願されると聞きました。
マシエル家はイタリア系移民で、芸術的なセンスに溢れた五人家族。お父さんの手作りという壁一面を荘厳した御戒壇には感激しました。キッチンの食卓には「HOTSUGANMON」と書かれた一枚の板が張られており、よく見てみるとローマ字で「願わくは生々世々菩薩の道を行じ…」と書いてある。聞くと「食前に家族で唱えている」と明るく答えてくれました。
日本から最も遠い国、ブラジル。そこに生活するご家族が、これ程素直に、佛立信仰と共に生活しておられるとは、私の想像を遙かに超えていました。
日本の食卓に食前の祈りがあるでしょうか。「ご供養」の意味すら忘れている、ご供養を粗末にする方がいる、とお寺の会議で嘆いていたというのに。「いただきます」という言葉すら言わない家庭が多くなったと嘆いているのに、と。
詳しく聞いてみると、マシエルさんのご家族が入信した経緯は、次女のタイアネさんが一人でお寺を訪ねたことが発端といいます。高速道路から如蓮寺の看板を見て、彼女はお寺を訪ねました。そこでご信心のお話をお聞きして心から感激し、「もしご信心をするなら、中途半端はイヤだ」と家族全員を誘って参詣をされ、みんなで入信した、と。今ではお姉さんも弟も、特にお母さんは喜びの笑顔に満ちた素晴らしいご信者さんになられています。
ブラジル本門佛立宗のご信心は、今や日系人の宗教からブラジル人、世界の人の信仰へ昇華しています。
まさに、そうした方々の、仏教、特に本門佛立宗の教えやご信心に向けられた真摯な姿勢や期待こそ、私たち自身に向けられた問いではないでしょうか。
東洋の思想に向けられた期待。西欧に住む宗教とは異なる宗教、「仏教」、特に本門佛立宗の教えに向けられた西欧の方の期待や視線。彼らは、何を感じ、何を求めて、何が違うから仏教徒となり、佛立宗の信徒となったのでしょうか。
難しい教理の話ではありません。単純に「仏教徒がなぜモテるのか」でも良いのです。それは、急速に欧米化した日本人にとって、既に忘れてしまった何かなのかもしれません。その点に着目したいではありませんか。
今から五〇年近く前、欧米では東洋に対する期待や注目が非常に高まりました。それはカウンターカルチャーやニュー・エイジ運動、あるいはヒッピー文化とも呼ばれ、かのビートルズがインドを旅行し、東洋的な自然との共生、愛や平和主義が世界中の若者の共感を呼び、時代を席巻したことがありました。
その後、そうした運動の反作用として、都市型で上昇志向の強い人々が台頭し、徐々に極端な東洋への傾斜は冷め、ヒッピーも資本主義社会へと帰ってゆきました。
映画「フォレスト・ガンプ」は彼らの変遷を端的に描いています。しかし、簡単に描いてはいけない、一時の流行にしてはならない思想、教えが東洋にあることを、今一度自覚しなければなりません。そう自覚し始めているのが現在の人々、特に仏教やご信心に興味を抱いている西欧の方々なのではないかと思うのです。
地球温暖化の問題、資本主義の行き詰まり、格差の拡大、教育の荒廃、テロの蔓延。いまの世界に生きていれば、誰もがストレスや不安、孤独を感じているはずです。その答えに仏教が求められている。
一九世紀後半、フロイトは自然科学のやり方で人間の深層心理、無意識の領域、心的な過程に注目しました。ユングは「客観的事実」と共に「経験的事実」に注目し、自然科学とは異なる手法で無意識の領域に挑み、フロイトの唱えた無意識よりさらに深層の領域には個々の自我を超えた普遍的領域があることを垣間見ました。個人の自我がどのようにして他の個人と影響し合っているか、他の動植物や物質、また過去や未来の全ての事物と関係しているかを探求し、体系的に論じることを試みました。晩年、彼は東洋への傾倒を強め、特に仏教に多くを学んだのです。
合理主義の申し子とも言うべきアメリカの若者たちが、あの時代、急速にユングの説く普遍的無意識の世界を理解した背景にドラッグの使用があったと指摘されます。ドラッグを通じて、「経験的事実」「普遍的無意識」を「体験」して、ついに東洋へ傾斜したと。それがニュー・エイジ運動だった、と。
その後、トランス・パーソナル心理学など、様々な学派が起こり、心理学会は離合集散を繰り返して今に至り、集合的無意識の領域は様々に解釈され、語られています。ドラッグを通じた心理学的な研究や治療は禁止されるようになり、オウム真理教などのカルト新宗教が密かにドラッグを使用して布教する事件もありましたが、漠然とした東洋思想や神秘主義、曖昧な知識として語られている間は何の利益もなく、離合集散を繰り返す間に、社会も個人も混迷を続けるだけでしょう。真の東洋思想とは即ち「仏教」だというのに。
東洋にいる私たちが忘れているのに西欧の人たちが期待している。神と個人の線でしか描けない世界を仏教はその答えとして複合的で普遍的な世界を説いているのです。
今回は問題提起や一つの視点を提示するに止めますが、東洋への期待は即ち私たちへの問いです。
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