佛立開講一五〇年が終わろうとしている。ご開講の当時に思いを馳せ、ご正当年の様々なご奉公を通じて、受け継ぎ、手にしている信仰の原点、スピリットのようなものを知ったり、再発見できたとしたらこれほど嬉しいことはない。無我夢中、駆け足でご奉公させていただいたが、何よりご奉公者の方々から教えられたことが多い。心から感謝しつつ、締めくくりができる有意義な一年だったと思う。
江戸幕府は、檀家制度を強いて仏教諸宗を骨抜きにし、一揆などの大衆の糾合を防ごうと試みた。封建的な社会でこの政策は浸透し、仏教諸宗は形骸化し、儀礼化した。苦悶する人間を救うという使命を忘れた僧侶が多く生まれていった。
その風潮の中にあって、何度も捕縛され、仏教の原点に立ち返り、お祖師さまの正しい教えと実践、衆生救済のための行動する仏教を打ち立てたのが開導聖人であった。
その後、多くの在家教団が半ば模倣したように、本門佛立宗とは仏教復興のルーツに位置し、人々の生活の中に真実の仏教を立たせ、僧俗一体で活動する人々だった。その原点やスピリットを、強烈に表明し、意識し、再確認しようと試みたのが、佛立開講一五〇年であったと思う。
一年前、二〇〇五年十二月号のナショナル・ジオ・グラフィック誌に「仏教ルネサンス」と題した特集記事が載った。世界に広がる「行動する仏教」と副題が打たれ、近年アジアから欧米各地に大きな広がりを見せている仏教、そこにいる人々にスポットを当てていた。
スリランカのサルボダヤ運動や、ミャンマー軍事政権下でスーチー女史を支援する仏教者、あるいは貧しい農村に住み、人々を救うと行動しているタイの開発僧(かいほつそう)に焦点を当てた記事。それは「謗法の僧」と切り捨てられない何かがある。
法華経の御法門、釈尊の御本意を無視して「仏弟子」も「仏教」もあり得ない。偏屈と思われても、「法」を無視して「仏法」は成立する訳もないから、「謗法」として断固一線を画す。しかし、同時にご開講の精神を振り返れば、行動する仏教とは、僧俗一体の菩薩行を開始した本門佛立宗の真骨頂であった。人々の生活深く入り込み、対話と心の開発、家庭と地域社会をより良くする行動するご奉公は、私たちこそルーツだった筈である。世界史の中でも、仏教ルネサンスの中心には、本門佛立宗の僧侶や信徒がいたと確信できる。
しかし、今や自己の修行のみで完結していた筈の小乗仏教の僧が、人々の救済のために行動している。それだけ末法の社会や人々が病み、格差や危機的状況が広がっているといえる。「謗法」と断じる前に、生活に直結した具体的な行動から、私たちは何を感じられるだろうか。
インドの首都デリーで、タイのサンサニー尼と偶然お会いした。東南アジア諸国の上座部仏教僧で、地域や貧窮する人々の救済に努め、心の開発を行う者を「開発僧」と呼ぶ。彼女は数少ない開発尼僧だ。近代化が大きな要因とのことだが、深刻化する貧困、麻薬、エイズ、特に家庭内暴力や家庭崩壊に対し、サンサーニ尼僧は極めて積極的に救済活動を行ってきた。いじめによる自殺や家庭の崩壊等、日本の家族が抱える問題を考え、彼女と会えたことは大いに刺激となった。
他にもエイズの末期患者救済に取り組む開発僧等、社会行動仏教に見る燃えるような使命感と行動力を、素直に見習いたいと思う。
本門の御題目は何より有難いが、そのまま飛んで苦悩する人の中に届くわけではない。まず、「人」が届けなければ「法」は届かない。だからこそ、尊い御法をいただく私たちが、上座部仏教の僧や信徒以上に、使命感や行動力を発揮しなければならないと思う。
一九九八年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者、アマルティア・セン氏やグラミン銀行総裁、本年ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏等と同じように、私たちが尊敬すべき人々がアジアにはたくさんいる。
いずれにしても、開講一五〇年の御正当年が暮れようとしている。草創期の使命感や行動力、情熱を思い返したい。突き詰めてゆくと、上行所伝の御題目と、その教えに基づく生き生きとした信仰が個々の人生に根付かなければ、本当の意味の共存や共栄、平和や幸福は訪れない。仏教的な社会活動は、「真実の仏教」による社会活動でなければならないし、そうであることが欠かせないと確信できる。
険悪な事件が絶え間なく続く中、開講一五〇年を迎えた私たちの「社会行動」こそ不可欠であり、今一度「仏教ルネサンス」の中心にあって、人間の心の闇に光りを灯してゆくべきであろう。家族が暮らす家庭で「御講」を奉修する本当の意味、苦悩する人がいればすぐに駆けつけてお助行に努めるという本当の価値を考えなければならない。本門佛立宗のご信心が、なぜ「仏教ルネサンス」の中心にあったかが分かるではないか。
今この瞬間も、私たちは御講を奉修し、互いに助行に励んでいる。人と人との結びつき、家庭の信仰、支え合う地域社会の在るべき姿がここにある。この御講を単に儀式化させてはならないし、お助行の血流を止めてはならない。それでは本門佛立宗の看板が泣くだろう。
先月、地下鉄のホームに大きく妙深寺の看板を掲示した。商売のお寺が「今お墓を購入すると無料で戒名差し上げます」、と、まるで仏教を馬鹿にして広告している中、苦悩を抱えているであろう人々に、活きた仏教の、本来のお寺があることを知っていただきたかった。
看板には本堂の写真を使わず、本堂から見える青空、横浜の港を遠望した写真を使った。それは、妙深寺の九十一才の尼僧、妙清師のエピソードによった。妙清師はご信者をはじめ、多くの死刑囚を心優しく励まし、導いてこられた。その妙清師もご信心に出会う前は、苦しくて苦しくて、何度も死のうと考えておられたという。その時、ご信心を勧めていただき、岡野町の妙深寺に行った。はじめて本堂に上がり、御題目をお唱えした時、今まで背負っていた重たい何かが消えてゆき、本堂から外に出ると、
「あぁ、空は青いんだ」
と気づいた、と。苦しさのあまり、ずっと空を見ることも忘れていた。その時、空の青さに気づいた、と。
地下鉄に乗る誰かが、あるいはホームに立つ誰かが、空の青さを忘れていたら、重荷を下ろす場所、心の故郷を伝えたい。末法の世界、私たちこそ行動してゆかなければ。
開講一五一年へ、仏教ルネサンス。
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