ミイラ取りがミイラになっては仕方ないが、こちらから出掛けていってご信心のお話をすることは、法華経本門の修行では欠かせない。そこには異なる宗教や思想の人がいて、歴史や文化も異なれば軋轢(あつれき)も多くなる。生兵法(なまびょうほう)は大けがの元だから、半端な姿勢ではご弘通にならず、自分の信仰心も減退してしまう。しかし、それを危惧して山林に閉じ隠っていては、本当の菩薩行にはならない。
生兵法は良くないが、同じ道場の中にだけいるのも宜しくない。大けがをしない代わりに、自分の実力も分からなくなる。同じ相手とばかり組み手稽古をしていたら、癖も技も読めるようになり、油断や慢心が生まれて、成長も止まる。武道だけではなく、何れの道でも他流試合は実力をつけてくれる。
自己満足や自己完結型、お山の大将や裸の王様にならないように努めることは欠かせない。
「ご信心をする」ということは、世のしがらみから自由になりつつ、この世に自由に関わることである。精神的には「出世間」し、実際的には「入世間」することが法華経の菩薩行である。娑婆の荒波から一人抜け出すことが目的ではない。混濁した世にあって、清浄な心を育みつつ、即ち世間の中に活躍の場を見出して生きてゆく。それが真の仏教徒の生き方ではないか。
たった一人でインド十一億の人たちに上行所伝の御題目をお伝えしようと奮闘しているラジ女史。その志の高さ、トラブルに対する不屈の精神、決して喜びを失わず、前向きに「挑戦」してゆく姿勢は、私たちのお手本といえるだろう。
インドの仏教徒は全人口の1%に満たない。近年はヒンドゥー・ナショナリズムの高まりもあり、イスラム教との対立によるテロも絶えない。いわば、謗法の人々に囲まれた中の孤独なご弘通である。
インド各地に赴いて、一人でも多くの人に御題目を唱え聞かせ、試みにも唱えさせることがご弘通の端緒になる。そう信じてインド弘通行は回を重ねてきた。
今年二月、私がイタリアで御講を勤めさせていただいていた折、ラジ女史から連絡をいただいた。
「ブッダ生誕二五五〇年を祝して、各国から代表団を呼びイベントを開催する。日本代表としてHBSが参加できる。ダライ・ラマ氏が参列するので、ぜひ福岡御導師との邂逅(かいこう)を実現したい」
早速、イタリアから福岡御導師にお電話を掛けて調整が始まった。当初、福岡御導師は単にダライ・ラマ氏に会うだけならお断りするつもりだった。しかし、不思議なことに、式典は「チャンティング(口唱行)」を主とするものであり、本門法華経の口唱行を紹介し共に唱えていただくプログラム、とのことで、渡航ご奉公を決断した。
一九八九年、ノーベル平和賞を受賞したチベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ氏は、世界的に最も著名な僧侶として認識されてきた。毛沢東、周恩来、ネルー、ヨハネ・パウロ二世、マザー・テレサ等、世紀を代表する政治家や宗教者と、時に対峙し、交流してきた人物。その人物に法華経本門のご信心を以て交流し、上行所伝の御題目を共にお唱えできる機会を持つとは、インド弘通のみならず「今ぞ世界を教化せん」との開講一五〇年を締めくくるに相応しいご奉公ではないか。歴史的な機会であろう。
佛立開講一五〇年、十月八日、インドの首都、ブッダ生誕を記念する公園に於いて、福岡御導師の唱導の下、参加した教講の御題目が響き渡った。ダライ・ラマ氏をはじめ、参加者四千名の耳に上行所伝の御題目の種が吸い込まれた。その種は永遠に聞く者の心の畑に納められ、いつかきっと芽を出し、花を咲かせて下さるだろう。
出稽古とはいえ「宗論問答無益」である。討論で人を教化することはできないし、人を救うことにはならない。しかし、この御題目を「聞かせる」「唱えさせる」ことは出来る。この御題目の尊いことをお伝えすることは出来るのである。そこから様々な縁が生まれていく。
ダライ・ラマ氏は私たちと共に上行所伝の御題目をお唱えされた。他の詠唱・読誦・口唱行は非常に難しく、最高指導者ですら経本を手にしなければ声を揃えて唱えることはできない。チベットの各派、あるいは各国のチャンティングは、多種多様であると共に「歌曲」であり、まず節を覚えなければ声を合わせることも出来ないのである。しかし、上行菩薩・お祖師さまがお届け下さった南無妙法蓮華経は、「ユニゾン(unison)」であって、「たった一つの音」、誰もが、即刻「調和」し「一致」できる「御法」「修行」であることを思い知った。
昨年に引き続き、バンガロール近郊の会場でもセッションを行い、冒頭に世界の口唱行が紹介された。続いて福岡御導師が法華経の教えに基づく御題目口唱の意義と利益について講話され、参加者全員が御題目をお唱えした。昨年も参加していた青年が興奮しつつ、この一年間御題目口唱のパワーを実感していたのです、と語ってくれた。
セッション終盤の質疑応答では、「ナムミョウホウレンゲキョウは日本語? 中国語?」「意味は?」と質問があった。ごく簡単に意味を述べれば「妙法蓮華経に南無する」である。これに対するやりとりは、この旅の中で最も印象深かった。
「なるほど。では、そのアイデアからすると『ナーモ・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』と唱えた方がオリジナルに近いと思う。ブッダはサンスクリット語で法華経を説かれたはずだから」
と発言した。ある意味、仏教発祥のインドに日本から仏教を戻す際、彼らが抱く当然の理屈とも言える。中国語に翻訳され、日本語に翻訳される前の原典はここにある、と。
この時、左手に法華経の原典を持ってセッションに参加していたその施設のマネージャーでもあるメノン氏が発言した。
「ヴィシシュタ・チャーリトラの存在がとても重要なのです」
その聞き慣れない名は翻訳すると「上行菩薩」である。氏は法華経を熟読して、ブッダご自身が御法を附属された「上行菩薩」の存在を無視して「直取り」は出来ないと理解されていた。インドに住む方がこうしたことを語られるのを聞き、私はこの上なく感激した。
上行菩薩は、お約束のとおりに末法へ御出現された。そのことを私たちは知っているし、勿体ないほど上行所伝の御題目は私たちの身近にある。出稽古や他流試合で我が身の幸せを思い知らされる。世間に行じてこそ、菩薩の法悦が感じられるのだろう。
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