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  日常、非日常

2006/9



 時代によって街の風景は変わるらしい。昭和三〇年から四〇年代には、ボウリング場や結婚式場が各地に作られ、街の風景を変えていったという。

 現在、全国各地の風景を変えている最たる例は、葬祭場だという。確かに、少し車を走らせただけで、次々と真新しい葬祭場が眼に入る。僅かな期間のはずだが堂々とした建物が建っている。参列者の交通の便を考えて要衝が選ばれているのだから、目立つのも当然である。今の世相や世代人口の推移を映す一例と言える。人々は葬儀や回向をどのように捉えているだろうか。また、四兆円規模へ成長を遂げる葬祭業界は、どのようなことを人々に訴えているのだろうか。

 ある葬祭場の玄関には、綺麗な書体で次のように書いてある。

「儀式を行う上で一番重要なことは『非日常性』です。日時、場所、祭具、服装、言葉の違い、音、香、空間等、一切を普段とは異なる 『特別なもの』にする必要があり、宗教性豊かなこの習わしは、民族の文化として太古の昔より親から子へ、子から孫へと継承されてきました。
 日常生活とは異なる故人の霊を送る為の儀式空間として、最期のお別れの時をおごそかに、そして格調高い感動へお導き致します」

こうした文言には全く感心する。

 死なない人は一人もいないから、葬祭場を訪れる機会は巡ってくる。喪服を着て、数珠を持ち、故人を偲び、その死を悼む。どう社会が変わろうと宗教心が変化しようと、友人や家族の死を通じて、誰もがそれを経験する。その時の気持ち、心構えを、玄関の掲示板は上手に伝えようとしているのが分かる。きっと、読んだ人は普段とは違う、凛とした厳かな気持ちで葬儀場に入れるであろうし、宣伝も忘れてないから大したものである。

 しかし、果たして「非日常」と割り切って良いものだろうか。

確かに、葬祭業界のビジネスに組み込まれた「お坊さん」ならば都合が良いだろう。その場限りの関係ならば、「非日常体験」で満足できれば事足りる。ある意味で、エンターテイメントのようなことになっているのではないか。

葬儀に限って言えば、連日連夜起こってもらっては困るのだから、非日常に違いない。しかし、葬儀だけに止まらず、宗教が、信仰が、亡き先祖に手を合わせ、凛として厳かに祈ることまでが、「日常」の枠から追い出されて、「非日常」のものだと誤解されてしまうことを怖れている。

残念ながら、非日常を売り物にしているお寺が多く、非日常じゃなきゃ困る、というお寺もある。盆暮れ彼岸と、年に数回の特別な期間や行事で、セレモニーをして、それで立派だ、結構だと言う。

本門佛立宗のご信心は、日常の中にある。日々のライフスタイルに密着したものであることは勿論、実は、回向も葬儀も、「非日常」を如何に「日常」の中に組み入れてゆくかが本当の修行であることを知らなければならない。

非日常を売り物にする伝統仏教。日常は佛立宗。非日常で驚かせるのは新興宗教。日常の中に驚きや感動を見つけるのが本門佛立宗、ブッダの真実の教えである。

もし、お寺に行くということ、掌を合わすということ、亡き方を供養するということ、真摯に祈るという「信仰」が「日常」の中には無く「非日常」に追いやられているとしたら、あなた自身の人生や家族の営みの重要な何かが欠落しているということに他ならない。ましてや、日常の中でいかに信仰するかを説く本門佛立宗の信者が、「非日常的佛立信仰」に甘んじていることは極めて勿体ない。なぜなら「非日常的佛立信仰」の間は、信心している有り難さがなかなか感じられない、分からない。日常の中に組み入れる、組み入れようと努めるからこそ、本当の御利益が顕れる、感じられる、佛立信仰の本当の素晴らしさが分かるはず。自分の信心が「日常」か「非日常」かを、ぜひ検証してもらいたい。

ダイエットの為に高価なエステや温泉に通うとしても、それ以上に日頃の生活習慣の改善が大切だと誰もが知っている。

癒しを求めて豪華な海外旅行をしたり、ショッピングで気を晴らしたりしても、日常の中に癒しやストレス解消のサイクルを組み入れなければ、ストレス解消をした後に以前よりも大きいストレスを感じるようになってしまう。

だからこそ、「非日常の信仰など有り得ない」と言い、「日常の中に佛立信仰を」と言うのである。

本門佛立宗のご信心は、特別なことよりも日常での修行を言う。現代人にとっては、普段は稀薄なお付き合いで頭にも浮かばないが、時期が来れば行く、という関係が受けるかもしれない。佛立宗では普段の生活の中で、朝夕のご宝前へのご挨拶、お給仕、お看経など、日常生活におけることを伝える。それを面倒だと感じる人がいるかもしれないが、先述したとおり、「非日常的信仰」では信心の真価は得られないのだから「日常」のライフスタイルの中に組み入れていただくことが最初の一歩となる。

佛立宗では、お寺だけではなく、ご信者さんのお宅までを「御講」として開放するように、徹底して「日常的信仰」なのである

七月、プリンストン大学大学院から日本の新宗教を研究する為に訪日したレヴィ氏が佛立研究所を訪れた後で京都長松寺に滞在した。彼は日本の新宗教を研究する中で、その源流に位置する「本門佛立講」に関心を持ち、研究を始めた。

北米大陸の大学院生が佛立宗を研究していることにも驚いたが、彼から見てどこが最もユニークなポイントか尋ねてみた。すると、
「講です」
と即座に答えた。私たちはすぐに法要としての「御講」を思い浮かべるが、この場合そうではない。

「導師を中心に、上下の別もなく、人々がブッダの教えを求めて切磋琢磨する集い、ご信者の和」

そこには、世間一般にあるお寺と信者、教えを説く側と聞く側、サービスを提供する側と受ける側、という境界はなく、日常生活の中で役割分担をしつつ励まし合って集う本来の信仰の姿があった。

いま、法要は「非日常」になりやすい。御講も三大会もお彼岸も、単なる法要にしてしまって、法要への参詣を勧めるだけならば伝統仏教と同じである。ご信心の妙味を感じられない。

朝夕のお看経、朝参詣、御講の願主や席主となること。日常的な佛立信仰を確立しましょう。



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