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  見えない戦争の中で

2006/7



 昭和五十五年の冬、予備校生が金属バットで両親を殴打して殺害した事件があった。先住はその後約一年、この事件を話題にしては世を憂えていた。それほど特異で、社会全体を震撼させた事件だった。

 あれから二十五年。残念ながら、親が子を、子が親を傷つけ殺める事件は爆発的に増え、既に奇妙な慣れさえ感じられるようになった。イジメや校内暴力など、青少年や家庭が抱える問題は山積していたが、現在私たちが抱えている問題とは質が違った。もはや金八先生や「積み木くずし」など、ドラマにもならない。それほど恐ろしい状況を迎えているといえる。

 千葉県の閑静な住宅街で起きた両親刺殺事件。東京都杉並区での海洋学者の父と母を殺害し長男も焼身自殺した事件。奈良では十六才の長男が自宅に放火して、母子三人を殺害。もう議論はたくさん。この国を助けてと叫びたくなる。

 挙げれば切りの無いほど、昨今の事件は異常な傾向を辿っている。人間のエゴ、心の脆さ、欲の強さ、思い込みの激しさなど、バランスが崩れると、身も心も一気に崩壊していく様が異常である。青少年に限ったことではない。高齢者の犯罪も後を絶たないではないか。

 国家の安全保障は、何も北朝鮮に限った話ではない。ミサイルや化学兵器を使わなくとも、日本の国内は戦争に突入しており、国民の命が奪われている。イラクでの米兵の死者は二千五百人。イラク人の死者は四万人といわれている中で、戦争もない日本の自殺者がたった一年で三万五千人を超える。かのベトナム戦争に於ける米兵の死者ですら五万八千人である。

 すでに広島と長崎の原爆による死者数を上回る勢いで自ら生命を絶つ人が増えている。殺人事件が減っても尊属殺人は増えている。今や見えない戦争の戦時下である。

 歯切れの良いコメントで世の人を気づかせてくれる人も出てきた。たとえば、人気俳優のジョージ・クルーニーは、米国社会の偏った在り方に一石を投じた。CNNやガーディアン誌のインタビューを全て掲載することは出来ないが、彼は偏ったメディアの在り方や、大衆に媚びる政治家を一刀両断し、「結論を言おう。どんなことになっても、自分の政府に質問することは、単なる権利ではなくて、国民の義務なんだよ。言論の自由を主張しておきながら、振り返って『でも私には酷いこと言わないでね』なんて言えるわけないだろう。大人になって、攻撃を受け止めようじゃないか。俺はリベラルだ。さあ攻撃してくれ」

と宣言した。イラク戦争を止めるために、ヒステリックになったり、アレルギーを起こしたり、無関心を装う世論に対して、真っ向から挑戦状を突き付けたかのようだ。

日本の中でも「国家の品格」や「この国のけじめ」の著者である藤原正彦氏のような方から正論を聞くと、現代社会の誰もが忘れていた『何か』を思い出せるのではないだろうか。日本主義、武士道、市場経済への考え方など、細かな点では異論もあろうが、ヒントに満ちていることに間違いはない。閉塞した社会にあって、誰あろう数学者が「論理よりも情緒が大事」と言い、会津藩日新館の童子訓や什の掟を引いて「ルールに従っているようでも、卑怯を憎む精神」がこの国にはあったと書いている。

 残念ながら、その高貴な日本は、見えない戦争状態に陥っている。深刻な現状は、それこそ論理では収まりがつかず、講演会では役に立たないだろう。「はびこる個人主義や利己主義には公の精神を、横行するいじめには卑怯を、子供の万引には『親を泣かせる』とか『お天道様が見ている』を教えるのがよい」とは、その通りである。しかし、今の家の中にはサムライもいなければ、信仰の対象となる神も仏もいない。生活の規範も、教えも無いということになる。

 藤原氏は、数学の天才は人口に比例して出現するものではないと書いた。氏が調査した結果、数学の天才を生む土壌には三つの要素があった。その第一は美の存在。美しい自然も芸術もない土地から天才は生まれないという。第二に、何かにひざまずく心が人々にあること。神仏を敬う心のことである。第三に役に立たないことを大事にする心だという。どこにも、塾に通わせるべき、などという要素はない。あるのは、心豊かな感性を育む「信」のある土壌ではないか。

 子供の頃、私は相当の悪ガキでお寺の息子ということなど考えず、親に迷惑ばかりかけた。中学から高校にかけて、母親はいつも学校に呼び出されていた。傷害事件で賠償金を支払わせたり、警察署に迎えに来させたり、無免許運転で家庭裁判所に行ったこともあった。調査官から「あなたのお父さんの職業は」と聞かれて、母が「お寺の住職をしております」と、顔を真っ赤にして答えていたのを覚えている。申し訳ないことをした。

 悪いことをして、父が私を怒るのは、いつも御法さまの前だった。御宝前に連れて行かれ、御宝前で怒られ、諭されたものだ。そして、誰よりも御法さまに謝る、誓う、ということを繰り返した。何度も馬鹿を繰り返したが、常に人間の存在以上の方が家の中にいたのだ。その方を中心に成り立っていた。

 私たちが忘れてしまったのは、このことではないだろうか。私の家庭に限らず、一昔前はどの家庭でも神棚や仏壇の前で子供を叱り、諭したのではないか。何か得体は知れずとも、人間を超えた存在の前に額ずいて、許しを請い、誓いを立てていたのではないか。今の日本はこの部分が欠落している。

 所詮、家族全員、欲や我の強い人間である。しかも、社会は欲や我を増幅させる。その両者が自前の理屈を振りかざし、定規も情緒もなく真っ向から対決して、果たして良い結果が生まれるだろうか。

 だから、私も歯切れ良く言う。いま必要なのは、墓地や戒名ではない。正しい信仰、お寺である。初参りは神社、結婚は教会、葬式はお寺、という日本人の間違った宗教心、コンビニエンスな生き方が恐ろしい事件を頻発させている。墓を買っても、法事の時だけ寺に行き、坊主と会っても意味がない。生活に息づく真摯な信仰こそが、心の戦時下で家族を守る術である。

 せめて、家族が敬う対象、神棚や仏壇があればと思うが、正しい教えと修行がなければ意味はない。この大切さに気づくのが遅ければ、家族を取り返しのつかない状況に追い込んでしまう。考えている程、時間はない。あなたの家に本物の信仰、御宝前があるだろうか。



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