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  私が死ぬ時のこと

2006/6



 あの日の朝、世界が一変した。平成十二年六月十四日。愛する父との別れ。やり場のない哀しさと切なさが、アスファルトのずっと奥へ染み込んでいくように感じた。周りの音も消えてしまっていた。あの朝通った帰り道には、今でも私の慟哭が刻まれていると思う。

 人は死ぬ。死を免れる者はない。死は、三人称から二人称、二人称から一人称となって迫ってくる。「誰かが死んだ」から「あなたが死んでしまった」になり、最後に「私が死ぬ」時を迎える。耳目を覆いたくなる現実だが、逃れる術などあろうか。

 戦争の記憶が薄れ、老いや死は病院の高い壁の中に押し込まれて、別世界の悲劇のようにも感じる。死を身近に感じてはじめて、命の尊さを知ることができるのだが。

 戦後の日本で育った私にとって、父の「死」ほど「生きる意味」を教えてくれた出来事はなかった。

 父とは、長松清凉、先代御住職、松風院日爽上人。最後の最後まで私を教え、導き続けて下さった。

 外科医・文化人類学者、冒険家としても世界中を踏破された関野吉晴氏が、ネパールでの体験談を書かれていた。美しい僧院の当主を往診したところ、末期癌で余命一ヶ月余りと診断した。案の定、しばらくして訃報が届いた。遺体は火葬することになったが、僧は死んでもすぐには焼かない。瞑想姿勢のまま安置しておき、三日後になってようやく火葬が行われたという。人間の死の原風景である。

 氏は、いつの時点で「死の宣告」をするのか親族に尋ねた。すると、「死期を悟ると、肉親や親しい僧を集めました。そして『私はこれから冥土への旅にでます』と言い、私らに最後の言葉を残しました。その後『それでは私は行きます』と言って旅立っていったのです」と言う。脈や呼吸は確認しない。

 日本では、一九一〇年まで即身成仏が行われていた。廃止は刑法に抵触するからという。死に臨む僧は食べ物や水を断ち、意志の力で死を迎えた。関野氏は脳死判定や臓器移植の問題と宗教や文化の関係を広い視野で解説しておられ、私は父の死と重ね合わせて読んだ。

 父は、病室で狼狽える私たちを逆に憐れんで見つめていた。希望を捨てきれない家族からすれば、父の態度が生を諦めているようで、あの時は理解できなかった。自ら死を見据えておられたようだった。あの日の朝、酸素濃度を量る機器を付けようとすると、何度も、
「もういいよ。もういいよ」
と優しく言われた。静かな御題目が病室に響いている中、私は父を抱きかかえ、眼を見つめていた。十二時間前、二人きりの病室。「バカ、お前がやるしかない」が最期の言葉だった。母と妻と姉。清康を剃髪され、息を引き取った。

「生き恥かいても死に恥かくな」が口癖だった。人間、生きている間は誤魔化しがきく。上辺を繕い、甘い言葉にだけ耳を傾けて生きていくことも出来る。私欲も化けの皮で隠すことが出来る。人の眼を眩ますことはたやすい、と。

 しかし、死んだ後は自分で化粧出来ない。髪の毛がバラバラでも、顔色も表情も、変えようとしても自分ではコントロールできない。死に逝く姿には、その人の一生が表れる、と。だから、生きている間に御法の筋を貫くこと、ご弘通に挺身することが大事と説かれた。

 父の臨終の姿は、息を飲むほど神々しかった。清康との写真では、透き通るほど白く、穏やかな御顔が見て取れる。かの口癖をご自身の姿で証明されたのだった。

 生前、神の如く敬われようとも、死して酷評されては仕方がない。長生きも立派な墓標も、後に受け継ぐ者がいなければ枯れて果てるのみで、大した意味も無い。

「先臨終の事を習ふて、後に他事を習ふべし」
高祖は御妙判された。死に向かい、そこから生きる。生き恥かいても死に恥かかぬ生き方こそ私たちの本懐。御仏も高祖も開導聖人も、押して最後のご奉公に向かわれ、その途上で人界を後にされた。

「志士は、溝壑に在るを忘れず、勇士はその元を喪ふを忘れず」

幕末の志士が詠んだ孟子の一節。志を持つ者は、自分の遺骸が溝に堕ちている姿や自分の首が落ちる情景を常に思い浮かべ、忘れてはならぬものと言った。

 長岡藩の河井継之助は、幼帝を擁する西軍と、先帝と幕府に忠義を尽くさんとする東軍の間で進退窮まり、ついに朝敵の汚名を着て戊辰戦争に突入。会津の飯盛山で白虎隊が自刃する直前、河井も息絶えた。その最期が司馬遼太郎氏の著書、「峠」に記されている。継之助は、死に際して下僕の松蔵に棺を作らせ、庭に火を焚かせた。病床から顔をよじり、やがて自分を焼くであろうその火を、終夜にわたって見つめていたという。

 妙深寺の初代住職日博上人は、病を押してブラジルのご奉公へと向かわれた。随伴した私の母は、注射を打つ係だった。日博上人はかねて「臨終条令」を作り、額に納めて教務室に掲げさせていた。

 一、部屋を清淨にすること
 一、三箇之中の御本尊を奉安し、梵気をみなぎらせること
 一、臨終者は御本尊にむかい、右脇を下に安楽に臥せよ
 一、信仰の師友が御本尊の側に列座し、家族親戚は反対側の後方より御本尊に
    むかう
 一、聖にして清淨なる中に遺言すべきはすること
 一、臨終者は信仰の師友に今生の高誼を感謝し、家族親戚に深厚の因縁を感謝し
    生々世々の誓願を表白すること
 一、口唱唱題の中に安祥として臨終すること
 吾等は右条令をわれと服膺し、信者にも教導することを誓願します。以上。

 親交の深かった西野日渓上人がご遷化直前の日博上人を見舞われ、
「清水さん、修行抄第六段です」
と言葉を交わし、上人は頷かれた。人払いした後、日晨上人にお懺悔をされた。家族にも御遺言され、
「病も病苦も、今生に置いていく」とお言葉を遺し、御題目口唱の中、御妙判に手を添えてご遷化された。

 辞世の句、

命をば 妙法華経に奉り
 カンナをかけてやりし日もあり

ワッハッハよきも悪しきも今生は
 まずはこれまで あとは来世で

その臨終の御姿は、まるで尼僧のように白く、穏やかだったと皆が口を揃えて語り継いでいる。

 私が死ぬ時、この偉大な方々の真似が果たして出来るだろうか。否、今は出来ぬ。一瞬一瞬の命を、全身全霊で生きなければ出来ぬ。



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