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  佛立の真価を知る

2006/3



 時折、私は誰に宛ててこうした文章を書いているのか考えてみる。
 まず思い描いているのは、信仰心の篤いご両親の周辺にいて、斜に構えながら本門佛立宗を見つめている家族の方ではないかと気づく。

 子供の側からすれば、ある時がくると何気なく通っていたお寺や家族の信仰を、一歩下がって見つめてみたくなる気持ちも分かる。人間とはその性として知的な欲求を抑えられない。より深く理解し、より物事を正確に捉えたいと思い、願うものだ。そして、それは時に疑問や否定をともなう。なぜ父や母はこの信仰をしているのだろう。一体、私の家の信仰は、他の信仰と如何なる点が異なるのか、と。また、嫁いだ先の宗教に戸惑いを感じる人も多い。

 そうした方々に、少しでも本門佛立宗の信仰の尊さや素晴らしさ、御仏の教えを伝えられたらと願い、日夜苦心している。

 難しい理屈は分からなくても、突き詰めればこの南無妙法蓮華経という御題目、「呪文」というと語弊があるが、それをお唱えすることが御仏の究極の法であり修行。

 人間は生きている間に「法則」を探す。法則を探し求めて学習し、幸せをつかみ、不幸にならぬよう努めている。限られた人生の中で、経験や知識から導かれた法則は、根拠があり有効でもある。しかし、普遍的な法則など得られるはずもなく、時には偏り、時に間違い、ジンクスや占いや運勢などに変容して、信じることも貴重な人生を委ねるにも値しなくなる。

 御仏は、人間が生きている中で探し求める法則を正しい形で教えられた。偏らず、ふさぎ込まず、単に楽観的でも悲観的でもない。自然界がそうであるように人生は実に奥深く多様だが、それぞれの、あらゆる人々にとってかけがえのない「ひとつ」の法を説かれた。

 本年は佛立開講一五〇年という記念の年。しかし、本門佛立宗がたった百五十年の歴史しかないということではない。「佛立宗」は過去から待ちに待たれて生まれた、仏教の真理を奉ずる、仏教史上類を見ない唯一無二の宗旨。開祖の名を付けた宗派が乱立する中で、「ブッダ釈尊が建立した」とする宗旨はただ一つなのである。

 同時に、本年は伝教大師・最澄が比叡山延暦寺を開いて千二百年の記念の年。しかし、伝教大師は、法華秀句の仏説諸経校量勝五で、「明らかに知んぬ。天台所釈の法華の宗は、釈迦世尊所立の宗なることを。是れ諸の如来第一の説也」

と認められており、この御文からお祖師さま(日蓮聖人)は、
「天台法華宗は佛立宗と申して佛より立られて候」「法華宗は釈迦所立の宗なり。其故は已説、今説、当説の中には、法華経第一なりと説き給う。これ釈迦佛の立て給う所の御語なり。故に、法華経をば佛立宗と云い又は法華宗とも云う」
と明らかにされた。さらに、
「当に知るべし、今の法華宗とは、諸経中王の文に依つて之を建立す。佛立宗とは、釈迦独尊の所立の宗なる故なり」
と「佛立宗」の宗名・宗義を明確にされておられる。

 これがどれだけ誇り高いことであり尊いことか。あらゆる宗教がそうであったように、数千年間の歴史を重ねて、宗団としての仏教は幾度も興隆と退廃、研鑽や堕落、勃興と瓦解を繰り返してはきた。しかし、御仏の滅後二千年の末法を待って、法華経本門八品に説き顕された末法有縁の大導師、上行菩薩が日蓮聖人となって御経文の悉くを体現され、久遠の本法たる南無妙法蓮華経の信仰を私たちに伝え遺し、諸宗の乱立と仏教乱用に終止符を打たれた、かに見えたのである。

 御仏のもてる一切の法、御仏に備わる一切の自在の神力、御仏に備わる秘要の奥義、御仏に備わる因果の功徳を、南無妙法蓮華経の御題目に包みこまれて、あらゆる多種多様な人生を歩む末法の人々に伝えて下さった。にも関わらず末法の濁流は正法をも呑み込む。

「日蓮ハ何ノ宗ノ元祖ニモアラズ又末葉ニモアラズ」
と仰せられ、「佛立宗」の宗名と宗義を明確に唱えて、その御意を主張されておられたお祖師さまの宗教は「日蓮宗」をはじめとする御意に適わぬ宗名を冠とした 諸宗の中に埋没されようとしていた。門祖日隆聖人の宗義御再興を経てもなお、お祖師さまの御本懐をば遂げるに値する「久遠本仏の立てさせ給う宗」は成立しなかったのである。

 開導聖人は、
「本門佛立講と申すは、宗祖出世の御本懐、上行所伝の御題目を広宣流布せしめんが為の故に、とり結びたる講也。法華宗のみは佛の立てさせ給ひし宗旨なる故に佛立講と申し、天台宗に紛れぬように本門と申す也」
と宣言され、今から百五十年前に言辞すら及び尽くされぬ大ご奉公を果たされた。本門佛立宗とは、法華経本門の御法門を説かれた、久遠本仏の立てられた宗、ご信心。そのご信心とは、尊いマントラ・呪文、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経と唱え重ね、我も唱え、人にも勧めるご信心。ここに極まる。この一点一事こそ、言葉を重ねてあらゆる人に伝え、御利益を得せしめんとすること。

「アーメン」とは、ヘブライ語の「その通り」「確かに」という意。キリスト教に於ける祈りの言葉は多様であり難解。イスラム教では、「アッラーフ・アクバル」と口唱するが、これも「アッラーは偉大なり」という賛嘆句。これも祈りの言葉そのものではない。

 私たちは、「南無妙法蓮華経」という、全ての御仏の功徳、神の力、慈悲、智慧が込められている御題目をいただいている。御題目をお唱えし、正しく口唱を重ねることこそ、誰もが出来る祈りそのものであり、修行そのものであり、幸福を得、不幸を遠ざける御仏の命そのものなのである。この凄さ、尊さ、素晴らしさを実感していただきたい。

 総じて人間は手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。なぜなら、見るのは誰にでも出来るが、じかに触れるのは少数の人間にしか許されないからである。故に、人はみな外見だけで遠巻きに判断を下したがり、ごく僅かな人しか実際にその真価を知ることが出来ない。

 しかし、どうか斜に構えている方々。縁あってこの文を読まれたのであれば、その場ででも良い。「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱えてみていただきたい。



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