志を高く抱いて生きている人は輝いています。そして、そういう方こそ、人間として真に価値ある一生を送られていることでしょう。同じ月日を過ごしているようでも、心の向いている方向で大変な差が生まれてしまうものです。
私には憧れの先輩方がいます。60才や70才を過ぎても精気に満ちておられ、問題意識や危機感を持ちつつ、同時に高い志や夢、使命感や慈悲心に満ちておられる。体力の衰えすら感じられない中で、能力や経験、知識や人脈に裏打ちされた生き方に、敬意を払わずにいられません。アジテーション(扇動)の巧みな評論家の著述を読むまでもなく、60才を過ぎてからこそ、人は人生の真価を発揮するという確信を深め、羨望(せんぼう)の気持ちを抑えられません。焦っても一朝一夕には追いつけませんから、その日まで貴重な時間を無駄にすることなく、生きてゆかねばなりません。
世に言う団塊世代が一斉に退職されるのが2007年と言います。60からが人生の黄金期であると信じている私にとっては、これも極めて羨ましいことです。永年の職責や勤務に束縛されることなく、自由に経験や知識を活かした活動ができるからです。開導聖人は、引退や隠居などはない、一生現役のつもりで志を持って生きなさい、とお示しですから、ここから人生本番、大活躍が期待されるのです。
一方、老獪(ろうかい)や老醜(ろうしゅう)という言葉があるように、尊敬に値しない先輩たちも数多く見かけます。偶然に同席し、彼らの話に耳を傾けると、吐き気がするような気持ちがするのです。国の行く末を案じているのは分かりますが、政治や経済の投げやりな批判に終始して、何も具体的で現実的で積極的な解決策が話題に上らない。評論に終始し、自分だけが賢いと思い込んでいる、隠遁者(いんとんしゃ)の愚痴(ぐち)のように聞こえます。
若者のマナーがなっていないと嘆きつつ、誰から見てもマナーに反しているのはその人だったり、時事的な話題を語っても、それが偏っていたり、視野が狭かったりと、聞いていて情けなくなったり、哀れに思ったりしてしまうのです。
「熟年離婚」という言葉が世間を騒がしていますが、私が彼らの妻だったとしたら、やはり耐えきれない。志の低さ、欲の深さ、知識の薄弱さや偏り、頑固さや度胸のなさを感じて、軽蔑してしまうと思います。
しかし、では女性が全て優れているかと考えればそうではなく、道徳や信仰心を失った社会の中で、個人主義の渦中にあるのは女性の方かもしれません。一線を越えてしまえば、夫婦や家族でいることの価値を見出せなくなるでしょう。お互いの功罪を計る基準が無いのですから、軽蔑の連鎖で熟年離婚の急増は避けられないでしょう。
考えてみると、私たちが素敵な60代や70代の方々にすぐには追いつけないように、全く尊敬に値しないような先輩方も一朝一夕に軽蔑の対象になったのではないでしょう。人生の永い時間を経て、徐々に壊れていったのではないでしょうか。「壊れている」という言葉を使ったのは、時間を掛けて醸成される人間性は、簡単に修復できないからです。人生の大半、数十年かけて壊れていったのですから、直すためには数十年掛かるという計算です。家庭的な幸不幸、経済的な幸不幸、社会的な幸不幸という様々な人生の要素が個人の人間性を醸成するとしても、自分のたった一度の人生です。無防備なままで心に任せて生きていると、いつの間にか壊れて、取り返しのつかないことになります。
離職する団塊(だんかい)世代をターゲットにした商品も巷に溢れてきました。趣味や旅行の企画商品、家や車、雑貨に至るまで、団塊世代の購買意欲を刺激するような戦略の商品が目立ちます。人生の指標を失い、生きる目的や目標を見出せないとしたら、次から次へと陳列される商品群に心を奪われるばかりで、貴重な時間、お金、身体、知識を活かすこともなく、時間が過ぎてゆくことになるでしょう。
過ぎ去っていく時間は、二度と訪れることもなく戻ってくることもありません。私たちは、過去に生きているのでもなく、未来にも生きていません。「今」を生きています。過去を生かすのも「今」。未来を作るのも「今」。常に「今」何が出来るかです。
誰の心も、気まぐれで優柔不断です。心は、余り頼りにならないものです。しかし、「心」の上に「士」を置けば「志」という字になって人生のコンパスになります。「家族が幸せ」、そして何をするのか。「息子を立派にしたい」、ではどうするのか。「身体が健康」、で何ができるのか。「お金がある」だからどうするのか。心に磁針を持たない人は、若くても、老いていても、難破船のように大海原を漂っているだけになります。
お祖師さま(日蓮大菩薩)は、
「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」
とお諭しになりました。心の赴くままに任せるのではなく、高い志の下に心を従えて生きていくことが本当に幸せで、豊かな一生を送る秘訣だと教えていただくのです。
一朝一夕には幸せになれません。志の高い人にこそ、幸運は訪れるのです。志を持たない人は、結局人生の意義に気づけないのです。「ミッション」という言葉があります。日本では外国学校のことを「ミッション・スクール」などと呼びますが、この言葉は「使命」「任務」という意味で、この場合「日本人をキリスト教化する」という「使命」を帯びた学校という意味です。偏った教義ですから、良いミッションとは呼べません。
海外のご信者も「ミッション」という言葉を使われます。社会を良くするため、子供たちの明るい未来を築き上げるために、御仏の教えを伝えることを、自分なりのミッション、志として生きていく、という意味で使われているのです。その高い志の下に、妙不可思議の御利益が次々に顕れるのです。
お釈迦さまは、弟子たちの嘆願を退けて、80才の高齢を押して、たった一人の弟子と共に、最後の旅に向かわれたと伝えられます。お祖師さまも旅の途上で御入滅を迎えられ、開導聖人も病を押して、大阪のご奉公に向かわれる途上で、74年の壮絶なご弘通ご奉公の生涯に幕を下ろされました。
新年を迎えるに当たり、運勢の善し悪しではなく、志の有無こそ、幸運に恵まれるか、不運に陥るかを決めると心得ましょう。志高く生きてこそ、この一年も、未来も、幸運に恵まれるのです。
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