親が子を殺し、子が親を殺し、夫が妻を、妻が夫を、兄弟同士で憎しみ合い、傷つけ合う。そんなニュースばかりで、食事中などはとても見ていられません。
家庭は、最も小さな社会です。その家庭が、今まさに音を立てて崩れようとしているのなら、社会全体が壊れ掛けているということに他なりません。
子供は社会を映す鏡とも言われます。家族の在り方こそ、社会を映す鏡です。「いま、子供たちに何が起きているのか」等、様々な場所で議論されています。しかし、まず考えなければならないのは、変わったのは子供たちではなく、大人たちであり、大人たちが作り、築いてきた社会だということです。利便性を追求して築いてきた現代社会に欠けているものを見つけ、それを自覚して見つめ直さないと、同じ屋根の下に暮らす家族の心の動き、光や闇にも気づけません。
私たちは何を得て、何を失ってしまったのでしょう。人も社会も、何を達成し、何が欠けてしまったのでしょう。目先の損得や便利さに心を奪われ、信義や信念、忍耐力を失ってしまったのでしょうか。合理性を追求する余りに、調和を織りなす大切さや辛抱する精神、公(おおやけ)の精神を失ってしまったのか。得るものがあれば失うものもあり、得ようとすれば手放すことになるものもあります。発展の後ろ側で怖ろしく大きなものを失ってきたのかもしれません。
農業革命、産業革命に匹敵する、第三の革命としてIT革命は定着しました。インターネットに代表される情報科学技術が、社会構造そのものを根底から変え、私たちはその激変の真っ直中にいます。世界を一つに結ぶと喜ばれていた技術も、その弊害(へいがい)も利便性と同様、いやさらに大きく認識されるようになってきました。
インターネット回線で結ばれることによって、世界は一つになるどころか、趣味趣向の合う者同士だけが仲間を捜して小さな集団を形成し、それが数え切れないほど乱立する、「分断された社会」が生まれようとしています。
教育学では、「社会化」という過程が人格の形成に非常に重要であると考えられてきました。子供にとって家庭を一番小さな社会とすれば、成長するに従って社会は大きくなっていきます。家庭から近所のお友だち、クラスメイト、クラブやサークルの先輩や後輩、就職した職場、取引先の相手など、次第に大きくなっていく輪の中で、人間は社会性を学ぶというのです。
しかし、分断された社会では、調和や忍耐を学ぶ「社会化」などは好まれません。ネット社会では、自分と好みの合う、レベルの合う相手を探し、小さな枠の中だけで安らかに生きられるというのです。
インターネットを利用する全ての人が、そんな考え方や生き方になるとは考えられません。しかし、発展を続けてきた社会や技術が、逆に家族や人間同士の結びつきを危うくするということは分かってきました。だからこそ、どんなに環境が激変しても、社会が発展を遂げても、そこに生きる「人間」という存在、その価値や可能性や愚かさを知り、考え、伝えてゆく努力を怠ってはならないのです。
私たちを取り巻く環境は末法の娑婆世界(しゃばせかい)。そこでは厳しい競争が際限なく繰り返され、誘惑や罠(わな)や、虚言(きょげん)やトリックで溢れています。どんなに恐ろしい世界だとしても、娑婆世界から逃げだすことは出来ません。逃げ出せないからこそ、その社会の中で、心豊かに、真に幸福に生きていくために、御仏(みほとけ)の教え、正しい信仰が欠かせないと確信できるのです。娑婆に生きる家族の心を一つに結ぶご信心です。
八十才の方も、この娑婆世界で生きています。三才の子供もこの悪世末法と御仏が説かれた世界で生きていなかなければなりません。十代や二十代の若者も、子育てをしているお母さんも、いま社会の最前線で活躍する方々も、誰もが末法に生きているからこそ、このご信心が絶対に必要なのです。
開導聖人の御教歌に、
世の人は 貪(とん)瞋(じん)癡(ち)慢(まん)の病あり
われものがれぬ ながら信心
と御座います。この世界に生きているあらゆる人が、実は先天性の病気を抱えているようなものだとお示しです。生活習慣病のように、気づかずに放置して悪化すれば、取り返しのつかないことになると。病気は身体を害するだけではなく、家庭生活を破綻させたり、仕事に行けなくなったり、人生を台無しにする恐ろしいものです。
その病とは、「貪欲(とんよく)」と「瞋恚(しんに)」と「愚癡(ぐち)」と「慢心(まんしん)」という心の奥底に潜むタチの悪い病です。
貪欲とは、際限のない欲望です。欲望といっても、生きていくためや世の中の人のために有益な欲もありますが、貪欲という病の為に、すぐにコントロールを失って際限なく増幅し、気づくと折角築いた家庭や人生を台無しにしてしまう。
瞋恚は、怒りのことです。夫婦喧嘩から殺人事件まで、怒ってる本人は正当な理由で怒っていると思い込んでいます。その怒りは、瞋恚の病が進行すると、歯止めが利かなくなり、想像つかないことまでしでかし、やはり人生を棒に振るような事態を招くのです。
愚癡とは、心の眼が眩む病で、この病気が進行すると完全に因果の道理から外れた、反対の選択をし続けるようになります。得することを損だと思い、損することを得だと思い込んで、アクセクして悪循環を繰り返し、誤った選択に人生を翻弄(ほんろう)されてしまうのです。
最後にお示しの慢心とは、現代社会の中で最も身近で恐ろしい病。調子に乗って、人のアドバイスも耳に入らなくなり、驕(おご)る姿勢から人望を失い、仕事に失敗し、人もお金も地位も失う原因になります。
このような四つの先天的な病を抱えているからこそ、定期検診とお薬をいただくことが不可欠だと教えていただくのです。お参詣や御法門(ごほうもん)聴聞(ちょうもん)を常に心掛けること、御題目を欠かさずお唱えすることは、まさに家族一人一人の健康を維持(いじ)するために必要なのです。
御教歌の中に「われものがれぬ」とあるのは、ご信者でも同じ病を抱えていると自覚しなければならないということで、さらに新鮮な気持ちで、子供からお年寄りまで、このご信心は欠かせないのです。
末法では、財産を残しても子孫は幸せになれません。逆に、争いや没落(ぼつらく)の種になります。財産以上に残し伝えなければならないものは「心」。家族全員でご信心する、私と家族でさせていただくご信心こそ、何より大切なのです。
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