桜の花は声を出すのでしょうか。それはザワザワという風の音か、パラパラ、サラサラと花弁が散る時の音でしょうか。
三ツ沢の丘、妙深寺の境内地に威容を誇る桜の巨木。日爽上人は、この桜をこよなく愛されました。春が訪れ、満開の桜を見る度に
「散りますと 花のいふのを 聞いてのめ」
という開導聖人の御教句(ごきょうく)を引いて、感慨深く私たちに呟(つぶや)く。ご遷化(せんげ)を迎える直前の春も、家族を従えて桜の下に行きました。先の御教句を呟きつつ、咲き誇る桜が発する声に耳を傾けているようでした。
そんな姿に影響されてか、私は、一年中、春は勿論、夏も秋も冬も、境内の桜に話しかけ、両手で幹を撫(な)でて過ごすようになりました。この御教句をいただいて、賑やかすぎる花見の時には桜の花の声を聞き逃してしまいそうで、一年中桜に注目することにしたのです。
桜は、他の木に比べて幹がゴツゴツしていて、春以外は見向きもされません。害虫も付きやすく、木の寿命も短いと言われています。しかし、春の訪れと共に咲く桜は、他の樹木を圧倒し、人々の注目を集めます。春の爽(さわ)やかな空の中、風景を一変させるほど美しい桜。暗闇の中に浮かぶ桜も見事です。そんな桜は、何を私たちに教えてくれるのでしょうか。
開導聖人は、この桜を詠まれた御教歌を数多く残されております。
「楽しみは さかぬ間にあり 桜花
さけばちるてふ をしさかなしさ」
「きのふ迄 世に時めきし 桜花
風にねたまれ 雨にうらまれ」
今か今かと開花を待ち、思いが叶うかのように桜は見事に咲いてくれるけれども、喜ぶのも束の間、咲くと思った直後から散りはじめてしまう。それは人間の一生に似て、無常愛惜(あいせき)の切なることを私たちに教えてくれている、と。
禅僧に師事していたことを知り、永くその素晴らしい作品を忘れていたのですが、今年は相田みつを氏の詩を思い浮かべていました。書家・詩人として独特の視点から「にんげん」「いのち」を見つめ、あるがままに、時に力づよく語りかける氏の作品は、いまを生きる人々が忘れかけていたものを思い出させる魅力があります。
「花を支える枝 枝を支える幹
幹を支える根 根はみえねんだなぁ」
上に伸びることだけを考えて、花を咲かすことだけを考えてきて、ヒョロヒョロと幹ばかりが伸び、枝葉がただ雑然と広がってしまい、その重さに耐えられない根の弱さに気づいた、と。自分という木の有り様をそのように感じたというのです。手遅れだと気づいた時、弱い根とわずかな枝葉を残して、全て切り落とすことにした、と。
誰もが、身動きも出来ない程の重たさを感じることがあります。必死に生きてきた、頑張ってきたつもりでも、いつの間にか重さに耐えきれず倒れそうになることがあります。しかし、そんな時に、花と枝、枝と幹、幹と根を見つめ、自分をひとつの木として捉(とら)えて、根の弱さ、根が育っていなかったということを思い知ることが大切だと教えてくれているのです。
人が見落としている人生の本質、自然の摂理、木々や花々が教えてくれていることを、飾らぬ言葉で伝えてくれる相田氏は、真の仏法を知らぬといえ、さすが仏の教えを求めた方だと敬服しています。倒れそうになっても、枝葉や幹を切り落とし、また新しい根を育てなさい、と教えてくれるのです。
桜の木は、枝葉を広げた分だけ土の下に根を張り巡らせていると聞きます。妙深寺の桜の巨木も、きっと境内地の下では大きく根を張っていることでしょう。だからこそ、空が見えなくなるほどの、あれだけ美しい花を咲かせるのでしょう。
春。満開の桜を見上げながら、夏の桜、秋の桜、冬の桜、桜の下に張っている根のことを想像してみてください。きっと、桜の花の声が聞こえてくると思います。
「散ります」 「散るものだよ」
と世の無常を教えてくれる桜。
「根っこが大事なんだよ」 「春先に咲く花だけ見ないで」
と人生の本質を教えてくれる桜。
「夏には葉を茂らせ、秋を迎えて葉を落とし、風雪に耐えつつ冬を過ごして春を迎えてこそ、綺麗な花を付けられるのです」
と順境に驕(おご)らず、逆境にも負けずにいてこそ、羨望(せんぼう)の春を迎えられるということを教えてくれる桜。
お祖師さまは御妙判に、
「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」
とお諭しです。桜の花の声を聞く春こそ、風雪に耐えてこその人生、根を育てつつ生きることの大事を知らなければならないのです。
春の門祖会。赤裸々にご自身のことをお話しくださった杉崎 直さんと千葉幸江さんと由乃さん。私はお話を聞きながら、
「この方々を通じて、御法さまがお話し下さっているのではないか」
と感じました。逃げる事も隠れることも出来ない人生の壮絶な場面でこそ、光り輝く御法さまのお力、私たちのご信心であることを教えて下さっていると感じたからです。
杉崎さんは人を幸せにする魅力を備えています。誰もが絶句するような苦しみを体験していながら、いまは感謝の心、喜びの気持ちを欠かさず、それを他の人に向けて生きておられます。
急性リンパ性白血病という病に家族の宝物である我が子を冒され、壮絶な闘病を経験されたお母さま。そのお言葉一つ一つをお聞きして涙が抑えられませんでした。それこそ、その壮絶な経験を乗り越え、大きく根を張られた本当に暖かく、大きく、素晴らしいお母さまからの言葉だったからです。
由乃さんは、お母さまが話している間、お参詣している席で泣き出してしまいました。私の席から由乃ちゃんの泣いている姿が見え、また私も泣いてしまいました。
しかし、お母さんの後にお話をしてくれた由乃ちゃんは、
「この母じゃなかったら、ここにいなかった」
「私はこの病気をしなければいけなかった。私にとってはラッキーだった」
と語られました。
安穏(あんのん)の春、御利益の春を迎えることは簡単ではありません。春に浮かれているだけ、上辺を飾り、見える部分だけ気を配っていても最後には倒れてしまいます。春と思っていた季節が実は秋だったり、冬のこともあるでしょう。どうか、桜の花の声に耳を傾けてください。
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