右に行くか、左に行くか、前に行けるか、行けないか。私たちは、いつでもY字のような岐路に立たされているのではないでしょうか。
生まれも育ちも、性格も能力も違う私たちです。ある人は活発で、ある人は穏やかで、短気な人も、根気のある人もいます。ですから、全く同じ出来事に対しても、ある人は喜び、ある人は悲しみ、ある人は狼狽(うろた)え、ある人は羨(うらや)み、ある人は笑い、ある人は嫉(ねた)むのです。それが違う性格、違う感性を持つ人間というもの。全く同じ感性で、全く同じ性格という人は、懸命に探しても見つかりはしません。
しかし、私たちは、たった一人の方のお心に近づきたいと思っている筈です。それが「御仏(みほとけ)」です。御仏が何に喜ばれ、何を悲しまれ、何を憂い、何を楽しみとされるかを知って、感じ方も考え方も違う者同士が、一人のお心を目指して修行を重ねていくのです。
ですから、本門佛立宗の信仰者にとっては、信仰の期間よりも、その人の「感じ方」や「考え方」がどれだけ変化してきたかということが重要です。御仏の御喜びに近づくことは、則ち最大の幸福を得るということに他なりません。
迷いが消え、苦しみは離れ、真の生き甲斐に目覚めた生き方。それこそ、私たちの終生の目標です。
時々刻々と様々な選択に迫られ、幸不幸の岐路(きろ)に立たされる私たち。その選択が、自分の感じ方や考え方に大きく影響されるのですから、放っておくわけにはいかないはずです。愚かなことに喜び、愚かなことに憤(いきどお)っていたのでは、本当の幸せに近づくことはないのです。
佛立開導日扇聖人は御指南に、
「人、一日一夜に八億四千万念の念慮(ねんりょ)おこるなり。その一念毎(ごと)に、信には信のひびきあり、謗(ぼう)には謗のひびきあり。故に、行住坐臥(ぎょうじゅうざが:どんなときでも常に)に口唱すべし」とお示しです。
一つの念慮が幸不幸の岐路だとすれば、私たちはたった一日の間でも、無限のY字路に立っている気がします。さらに法華経の核となる「一念三千(いちねんさんぜん)」の教えを頂けば、その「一念」の中に「三千」もの要素が含まれているということですから、まさに天文学的な幸不幸の分かれ道。考えても分からない、知識を仕入れても理解できない、コントロール出来ないのですから「信」でしか入ることが出来ない、変えることも、成長してゆくことも出来ないとお示しです。
「即身成仏の仏とは、四十八の妙相を現じ給ふのみを、仏と云はず。先づ心を仏にするなり。仏の心とは妙法の悟(さとり)也。末代とても、この仏の悟りに入らんには、ただ信のみ故に信を以て仏になる也。また今の時は菩薩行を因の如来と申す也」
と御指南がございます。信を以て小我(しょうが:私たちの心)から大我(だいが:御仏の心)に近づき、何よりも生き様が変われば真のご信者です。
私たちの目標は、小さな自分が大きな自分へと成長していくことではないでしょうか。「生きとし生けるもの」の、悲しみと悦びを分かち合える、大きな御仏の御心に近づくことです。今は、性格も違えば能力も違いますが、目標を共有するところに、今までの自分が見てきた世界とは全く違う風景が広がってゆくのだと思います。
そうした「心象風景の変化」は、きっと周りの人に理解されません。「なんであんなことで喜んでいるんだ?」「何が楽しいんだ?」と。それも仕方がないのです。仏陀(ぶっだ)もそうであったし、多くの宗教者も、深い考察と洞察力を持った芸術家も、他の人から見れば理解されないことの方が多いものだからです。
結局、心の変化は「生き様」や「作品」で示してゆくしかないのでしょう。芸術性の乏しい私たちであれば、生き様が変化することを信心増進と言い、その変化とは、菩薩行という生き様の変化に結びつかなければならないと思います。
本門佛立宗のご信者でなくても、私には尊敬する方々がおります。多くは、その「生き様」や「作品」の中に御仏と同じような心象風景(しんしょうふうけい)が垣間見える方です。その風景が、真実の仏教が描き出す世界と異質では無いと感じるからです。
逆に、同じ信仰をしていても、心象風景の変化も全く感じられず、「生き様」としても表れない人に、何の魅力も感じられません。世間の人と何ら変わらぬ喜怒哀楽や、地位や権力や名誉に執着する姿、奇妙なニヒリズムと厭世観(えんせいかん)の中に、尊敬に値するものは見出せません。唯一の修行の成果は、「生き様」の変化に表れるのですから、日々、何に喜び、何を悲しみ、何を憎み、そこから導き出される「言動」の変化こそ大切だと考えるのです。
人は、言葉や理論によって影響を受けますが、何より心に響き、自分の感性や考え方に変化を与えてくれるのは、人との出逢いです。その「人との出逢い」とは、その人の発する言葉や理屈ではなく、その人の「生き様」だと思います。「何故この人は、こういう生き方が出来るようになったのだろう」という問いから、「私にも出来るだろうか」「私も彼のようになりたい」「彼のように生きたい」と思うようになります。それが悪縁であれば悪しく変わることになりますが、良き「出逢い」を重ねることによって人は成長するのです。
御仏が「法は人(にん)に依(より)て弘まる」と説かれているのは、佛立信仰によって眼覚めた者たちが「生き様」を示すことなのだと思います。
私は、ガンジー氏やキング牧師、マザー・テレサ、ジョン・レノン氏など、二十世紀を代表する方々の生き様に強い感銘を覚えます。宗教・思想は異なりますが、その生き様には敬意を払わずにいられません。左翼・右翼、リベラル・保守などの枠など関係ありません。
特に、ジョン・レノン氏は凶弾に倒れてから、来年で25年。1940年生まれで、ビートルズの中心的存在。オノ・ヨーコ姉と結婚。共に普遍的なものを求めて活動を続けられました。彼が宗教を否定したと捉える人がいます。私はそう思いません。西欧的な神、絶対的で二元的な価値基準に異を唱えたことに間違いありませんが、真実の仏教の説く所と異質のものでは無いと確信しています。普遍的な真理に近づき、平凡に生きることが真の信仰者であるならば、彼の生き様、変化のプロセスは、強烈な光を放っているのです。
完全な人は、今やおりません。それぞれが混沌とする社会の中を模索しながら生きています。ただ、私たちこそ良い変化を遂げながら、「生き様」として佛立信仰の真価を体現しなければならないのです。家庭の中、社会の中、世界の中で。
感じ方や生き方が変化してこそ、私たちは幸福を手にするのです。
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