先日、チャンネルを変えると、見るからに徳の高そうな、豪華なお袈裟を掛けた高齢のお坊さんが出ていました。インタビューをされていたのは京都の清水寺前管長、百才になる大西良慶氏。NHKの古い番組で百才の誕生日をお祝いするような内容でした。
大きなテーブルの前で、記者に囲まれる高僧。その設定は何とも雰囲気があります。その記者が、「おめでとうございます。管長は大変なご高齢で、若い頃から唯識(ゆいしき)や座禅など、多くの修行をされてきましたが、仏教の真理とは一体何なのでしょうか」
と聞きました。すると大西氏が、
「真理なんてナイの。南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏もナイの」
タイミングの悪いことに一緒に見てしまった妻を恐る恐る見ると、案の定ジロリと睨(にら)んでいます。
住職の妻としてはお恥ずかしい限りですが、彼女は六年前に癌を患い、その手術等を通じて、ようやく御題目がお唱え出来るようになり、最近やっと朝夕に御宝前に向かうようになったばかりです。疑問があればすぐに食ってかかる、元クリスチャンの手強いライバル、難しい教化子です。その彼女が、
「あら、こんなにスゴイお坊さんが南○経なんて無いって言ったわ。どういうこと? 聞いた? あんなに偉いお坊さんが言っているのよ」
「冗談じゃないよ。あの人は間違ってる。良い話をして、長く修行したというけど長生きをしただけ。本当の御仏の教えを知らないよ」
と答えました。すると、
「なんてこと言うの! 百才の人をあなたのようなまだ若いお坊さんが馬鹿にするなんて信じられない。よっぽどおかしいわよ!」
老僧への悪口を謝りつつ、理由を説明しました。すると、すぐにまた別のチャンネルで、曹洞宗の本山、永平寺の百四才になる住職が紹介されていました。普通ですらご高齢の方のしわがれた声は説得力があるのに、ましてお坊さんです。「人間は弱い」「見栄を張るな」という言葉も、ジーンときます。しかし、「どう生きるか」という後半で「ホトケさんも座禅して悟(さと)りを開いたのやから、座禅するしかない」と言い、結局は御仏の真意も末世の人の為の修行も経典も蔑(ないがし)ろにされてしまいます。座禅が非常に危険な修行であることも隠し、誰にでも出来ると言います。
最後に、永平寺の住職が、毎日般若経(はんにゃきょう)を書写し、その数は八百巻を超えていると紹介されました。その般若経を書き終えた最後に、
「願以此功徳(がんにしくどく)、普及於一切(ふきゅうおいっさい)、我等與衆生(がとうよしゅじょう)、皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)」(願わくは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん)
と書いていると紹介されました。
私は驚きました。その御文は、法華経(ほけきょう)化城喩品(けじょうゆほん)第七にて説かれた御経文です。「なんで?」という疑問が浮かびます。経典を勝手に組み合わせ、最後に法華経の御文を用いても、御仏の御意には叶いません。抑(そもそ)も、開祖道元が「焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず」と述べているのに、横浜の総持寺等がお葬式で有名になり、御経を読み、焼香や礼拝をしていることを見ても、教義や修行がチグハグになっていることが分かります。
しかし、それを明確に伝えようとしても、「長生きのお坊さんが言っているのに、あなたは何?」と言われる。困ったものです。
伝教大師の御弟子に円仁(えんにん)という僧がいました。円仁は中国に行き、有名な紀行文を残して、延暦寺(えんりゃくじ)の座主(ざす)になりますが、同時に師匠の教えを曲げて、本尊も定まらない密教(みっきょう)的な宗旨にしてしまいました。その円仁が、晩年に後継者としたのが相応(そうおう)という寡黙(かもく)な僧でした。
相応は、ひたすら比叡山の峰々を歩く「回峰行(かいほうぎょう)」の創始者です。「何としても不動明王(ふどうみょうおう)を拝したい」という一念で、独自に果敢な修行を始めました。三年間歩き続けて、どうしても拝めない、出てこない、どうしたら出てきてくれるのか、と絶望の中さらに励んでいる内に、ある滝の中に火炎を背負った不動明王をありありと見たといいます。
喜びの余り飛びつくと「桂の古材だった」と書き伝えられています。晩年、相応は、その修行の裏付けを求めて苦悩しました。ある夜、夢枕に薬師如来(やくしにょらい)が現れ、
「是(こ)れ、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の行なり」
と教えられたと言い、それを回峰行の教義的な裏付けとしました。
常不軽菩薩もまた法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる菩薩です。「常不軽」とは、常にいかなる人も軽んじず、誰に会っても拝んで回る修行をされたことから名付けられました。
「何してる。気持ち悪い。拝むな」
と怒ったり、馬鹿にされたりする中で、いつもこの菩薩は、
「あなたも菩薩の道を行じて、きっと仏になられる方なのです」
と言って、挫(くじ)けることなく修行を貫かれた御方です。
どれだけ常不軽菩薩を慕っても、人里から離れて深い山林を選んだ相応は、常不軽菩薩の御真意から遠く離れてしまっています。普通の人ですら、年が長けるとその人なりの宗教や哲学を持つものですが、仏教徒が個人の見解を中心にしていては、御仏の教えは曲がり続けます。迷い続けてしまいます。
御仏の側からではなく、こちら側の感覚や好みから見ていては、仏教は仏教ですらなくなります。
夏は、「魔(ま)」が差しやすい季節といいます。「魔」とは、私たちにとって都合が良く、見た目も良く、受け入れやすいものです。決して、明らかに間違っていると思われる人やモノではありません。むしろ、素敵な人、絶好のチャンス、尊敬に値する人やモノが「魔」となり、尊い生き方や幸せな生活から遠ざけようと試みているのです。
お祖師さまは、如説修行抄に、
「善師(ぜんし)をば遠離(おんり)し悪師(あくし)には親近(しんごん)す」
とお諭しになり、御仏の御本意を無視する僧、追従(ついじゅう)する者の悪癖(あくへき)をお戒めです。「得ないものを得たと思う者」は「聖(ひじり)に潜む増上慢(ぞうじょうまん)」として謗法の最上位に挙げられました。私も、そうした落とし穴に気をつけ続けなければなりません。
佛立信徒は、真に正しい修行に励めます。難行苦行をせよというのではありません。朝夕のお看経、一日に最低二十分のお看経をするのが佛立信徒です。朝の忙しさの中で慌ただしくバタバタ出掛ける、疲れて帰宅する前後に、御宝前でお看経が出来るか、出来無いのか、が大きな分かれ目です。
「魔」に囲まれた生活だからこそ、欠かせない修行があります。怠り、油断すれば、魔が近づいてきます。家族を魔から守るのが、家族の中の佛立信徒であるべきなのです。
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