長い間、宗教と科学はその深い溝を埋められずにいました。宗教は科学を徹底的に弾圧し、苦闘を続けた科学が圧倒的勝利を収めた後、今度は科学者や科学の恩恵を受けた人々の多くが宗教を軽蔑(けいべつ)し、牽制(けんせい)してきたからです。
1543年、ニコラス・コペルニクスが「天球の回転について」という「地動説」を著してから、宗教的宇宙観を覆すものとして、ローマ法王庁は「異端」を唱えることを厳格に禁じ、ジョルダノ・ブルーノは火刑に遭い、ガリレオは幽閉され、葬儀を行うことさえ許されませんでした。異端審問所という機関が設置された後には、悪名高い「魔女狩り」に発展して、十八世紀まで猛威をふるいました。
ニュートンやデカルトの近代的科学思想が世界を席巻してから約三百年。自然科学も医学も著しい発展を遂げ、私たちの生活は疑いなく豊かで、便利になりました。
しかし、物質を心とは無関係の物体として扱い、宇宙を数多くの異なる物質で構成されたシステムと考え、身体と精神とを切り離して解明しようとした科学者たちは、ごく最近になって今までの宗教と科学の無関係、無干渉の分業体制を見つめ直そうとしています。
「世間からどう思われているのか知らないが、私は自分のことを、海岸を歩きながらきれいな小石や貝殻を見つけて喜んでいる少年に過ぎないと感じている。ときどき科学的真実という貝殻を拾っては遊んでいるけれども、かたや真理の大海は、依然未知のまま私の前に横たわっている」と死を迎える直前のニュートンは語っています。
筑波大学の名誉教授で、遺伝子研究の世界的権威である村上和雄氏は、「サイエンスだけでは智慧が足りない」と言い、今世紀こそ宗教と科学の関係を見直す時である、と積極的に提言をされています。
「現代科学というと一見、宗教からどんどん離れていくように見えるのですが、実は逆で、宗教との共存というか、それで出来る気がします。一時は宗教に対抗して、宗教の束縛から逃れようとして、逃れることで科学が自由になったというのがあったと思うんです。しかし、それは逆で、科学が大人になった結果、分からないこともあるということが分かってきたということもあり、逆に宗教、精神、心、そういう問題も一緒に統合・共存できる、そういう兆候があるような予感がします」と村上教授と養老孟司氏等、最先端科学者等のシンポジウムを一冊の本にした「脳+心+遺伝子対サムシンググレート」では語られています。
近代科学、特に素粒子物理学、遺伝子研究の分野から、デカルトが提唱した「二元論」についての批判と、新しい視座に立った宗教との接点の模索が始まっています。
特に、素粒子物理学では、物質偏重の宇宙観が根本から覆される事態が起こっています。私たちの肉体も、器官から細胞、細胞から分子や原子、原子から陽子、電子、中性子という素粒子に分解できることが分かりましたが、それらはもはや「物質」とは呼べないほど、不可思議な存在へと変化します。その分野では、「物質」ではなく、「意識」的な、私たちが「魂」と呼ぶような「モノ」との境界線が見えてきているといいます。量子力学など最先端科学が、皮肉にも「唯物論(ゆいぶつろん)」の否定に直面しているというのです。
イギリスのサウサンプトン大学の上級特別研究員、パーニア博士とオックスフォード大学の顧問を務めるフェニック博士の二人は、臨床的に死んでいると判断された人たちの体外離脱体験を究明する大規模な研究を進めるための公益財団を創設したと発表しました。2001年、パーニア博士は臨床的に死亡した後に蘇生した患者の内、10%が臨死体験を持っているという研究発表を行いました。その証拠として、生前に全く患者と面識の無い病院スタッフのことを蘇生後の患者が知っていたり、実験中の医師たちの会話を患者が覚えていたりする事実を挙げました。この間、脳は全く活動しておらず既知の医学ではあり得ません。
これまでの科学界は、体外離脱体験説を一笑に付してきました。事実と信じたいと思っている人でさえも懐疑的になっていたと言います。しかし、懐疑的であっても、科学者は、研究の必要性を感じているのです。
臨死体験研究の父とも呼ばれるケネス・リング氏は、心停止した後に蘇生した視覚障害のある患者が臨床的に死んでいる間、「自分の身体を見た」と述べたことを著書に記し、キューブラー・ロス女史は著書で全盲の人たちが臨死体験を語る際、そこに居合わせた人が身につけていた着物や装身具まで描写できると報告しました。
フェニック博士は、科学が知覚的に物質的形状を持つものが対象で、実体の無い「意識」について、説明が出来ない事実を指摘しています。近代科学の世界観が、いずれは唯物論的なものから超越論的に移行すると発表しているのです。
前世を記憶する子供たちの研究についても、ヴァージニア大学をはじめとする多くの機関が研究を続け、極めて興味深い発表をしています。前世から来世に至るまで、まさに、宗教と科学の接点が見え始めているのです。
しかし、こうした兆候を敏感に察知して、様々な宗教が科学的な見解を身勝手に解釈しているのも事実です。今、こうした研究者が注目しているのは仏教しかありませんが、御仏(みほとけ)の教えの次第順序を知らない者や宗教ブローカーが、「輪廻(りんね)」「前世(ぜんせ)」「瞑想(めいそう)」「波動(はどう)」と、断片的に、曖昧に組み立て、調子の良い教義に変えています。既成仏教は殻に閉じこもり、新々宗教には柱がありません。本尊もコロコロと変え、最終的には危険で、無益な集団に堕(だ)してしまいます。
御仏は、宇宙の在り方、生死、魂、精神について説かれています。今や、科学は御仏の教えの偉大さと融合を果たそうとしていますが、知的な好奇心だけで宗教と科学の接点を傍観(ぼうかん)していたのでは始まりません。知識ではなく御仏の智慧(ちえ)として、人生に活かせななければ意味がありません。
無始已来(むしいらい)の業を転じて、如何(いか)に生き、如何に来世へ向かうかを日々に教えていただく私たちです。頭ではなく心で、考えているのではなく御仏の教えの実践で、今の一生の真価が問われます。正統な御仏の教えは、宗教と科学の中心に位置します。御題目口唱と菩薩(ぼさつ)の生き方は、永遠のテーマである問いへの、唯一の答えなのです。
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