必死に話をしても、聞いているのか聞いていないのか、分かっているのかいないのか、子育てには愛情と同時に根気や信念が必要で、本当に難しいものだと感じます。「三(み)つ子の魂、百まで」と多くの方から教えていただきますので、まだ注意力も散漫(さんまん)で会話もできない子供ですが、日々真剣に向き合う努力をしております。
子供の心は、綺麗に耕された畑のようだと言われます。目にするもの、耳にするもの、触れるものの全てが、「種(たね)」として潤う心の新田(しんでん)に落とされてゆくようです。善きにつけ悪しきにつけ、いつか「種」は芽を出し、実を結びますから、見ていないようで見ているはず、聞いていないようで聞いている、分からないようで分かっているはずと肝に銘(めい)じて、良い種を蒔き、悪い種が植えられてしまわないように、親は日々に緊張して過ごすことになるのです。
実は、この考え方は、全て御仏(みほとけ)の教えに符合しています。真実の仏教では、三歳の子供に限ることなく、心は田の如(ごと)く、様々な事象は「種」の如く、心の奥底に植え付けられ、決して消え去ることはないと教えられているからです。
人間の脳は毎日情報を整理して必要なものは残し、不必要なものは始末して忘れさせてくれます。「忘れる」ということは、人間が混乱せず正常に生きていく為には、必要な機能なのかも知れません。しかし、「忘れる」は「消え去る」ことではなく、極めて大きな心の深層に「貯蔵(ちょぞう)される」ということだと説かれるのです。残念ながら、未だ現代の医学で立証することはできませんが、脳とは別の次元の「魂(たましい)」とも呼べる領域(りょういき)で、深層の「心」は「田」や「蔵(くら)」のように存在し、あらゆる事象は種として埋蔵(まいぞう)され、この種が未来の幸不幸(こうふこう)に左右していると説かれるのです。
別に「種」という言葉を使って、私たちに農作業をさせようというのではありません。物質と精神の境界を超え、時間と空間を超えて自分が認識できる心の向こう側に、無限の宇宙が広がっていることに気づくよう教えてくださるのです。自分が認識できる小さな枠の中にだけ囚(とら)われて、他の人との繋(つな)がり、自然や宇宙との繋がり、過去や未来との繋がりを知らない人間に「種蒔き」の生き方を促(うなが)されているのだと感得します。
私たちは、自分では気づかない心の奥底で、空間的にはあらゆる人々と結ばれています。あらゆる人々の心の中の情報をも備わっていると教えていただきます。同時に、時間的には過去の何千年、何万年何千万年もの情報も備わっていると教えていただくのです。その無限とも思える壮大な世界への働きかけとして善き種を下して生きる大切さを知るのが真の仏教徒です。
本門佛立宗は、別名「下種宗」ともお示しです。御題目をお唱えする際には必ず「本因下種の〜」と前置きさせていただくように、「下種(種を下(くだ)す)」という言葉や考え方は、私たちの生活や信仰から切っても切り離すことが出来ません。微小な自己が無限の宇宙との結びつきに向かい、そこにアクセスする方法が御題目口唱であり、それは最良の種を下す、御仏の種を下すことに他なりません。一見単純な御題目口唱という修行には、深甚(じんじん)な仏教の究極の哲理(てつり)や教義の全てが凝縮(ぎょうしゅく)されているのです。
現在、このような精神から見た世界を探求した深層心理学や捉(とら)えにくい心の世界を描き出す人々が注目を集めています。裏を返せば、人類は、遙(はる)か火星にまで宇宙船を送り、操作や交信ができるにもかかわらず、未だに一番身近な心との向き合い方、操作や交信の仕方について知識が足りないからだと考えられます。精神分析学者たちの多様なアプローチも、あくまで私たちが御仏の教えを再認識するためのガイドラインに過ぎないと思えます。なぜなら仏教こそ、私たちの心の有り様や法界の姿、心との向き合い方や働きかけ方が説かれ、膨大な数の修行者たちが実際に臨床実証(りんしょうじっしょう)してきたからです。その究極の答え、唯一無二(ゆいいつむに)であるアクセス方法が、御題目をお唱えすることであり、種蒔きの生き方であります。それは、わがままで難しく、時間的にも、空間的にも、孤立しがちな我が心との、正しい向き合い方、働きかけ方なのです。
生まれたばかりの子供の心は、母親の心と繋がっていると言われます。母親がイライラしていれば子供にも伝わる、母親が心穏やかであれば子供にも伝わるのです。私たちは心の奥底の構造など理解が及びませんが、きっとどこかで繋がっている、と知っています。それは、我が子に限ったことでは無く、三才までに限ったことでは無く、家族や愛する人に限ったことではありません。赤の他人とも、大人になっても、恨(うら)み憎(にく)んでいる人とも、過去の人とも、未来の人とも心の奥底で繋がっているのが私たちです。だからこそ、御題目をお唱えし、御祈願(ごきがん)をし、御回向(ごえこう)し、過去の罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)を願い、未来の成仏(じょうぶつ)をも祈り、偏(かたよ)った執着心(しゅうちゃくしん)や我見(がけん)を捨てて、菩薩(ぼさつ)の心を持ち、志(こころざし)高く生きようと努めるのです。そう生きるべきだと説くのです。繋がっているからこそ、遠方の人の御祈願も通じます。通じているからこそ、恨みの心、嫉(ねた)む祈願は結局自分を害すると教えられます。
真実の仏教では、悩みだらけの平凡な、平均的な人間が、悩みを超え、覚(さと)ることを願って修行する菩薩になるべきだと説かれます。「菩薩」と言えば、世間では観音(かんのん)菩薩、地蔵(じぞう)菩薩という名前を連想して仏像の姿を思い浮かべるようですが、もし私たちが「このままではダメ」と思い、より高い自己、より高い人格への成長をしたいと切実に願い始めたら、平均的な所に安住し、居直っている「凡夫(ぼんぶ)」から成長の途上になる「菩薩」になったことになります。
人間は、他者や他の生命、あるいは自分自身の生命さえ、苦しめ傷つけるような生き方を、完全に克服できるでしょうか。その問いに仏教は「できる」と答えます。その答えが、真実の仏教の中に、御題目の中に、口唱の中に、菩薩の誓いの中に込められています。
紙面をいくら費やしても、御仏の御覚りの中身を伺(うかが)い知ることはできません。心のことも、宇宙の姿も、その結びつきも、研究し、認識ができるものではありません。ただ、きっと感じることはできるのです。感じるだけで良いのです。ご信心の中で、御祈願の中ご奉公の中で感じられるはずです。
心に、家族に、大地に、大空に素敵な種を蒔いてゆきましょう。
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