「佛立信仰は最大の不幸を最高の幸福にする」──日博上人が口癖のように仰せになられていたお言葉です。上行所伝の御題目を頂き、真実の仏教を実践する佛立信仰は、人々の抱える苦悩や苦痛を転じて御法の尊い御力を感得し、本当の幸福とは何かを知ります。自分の弱さと愚かさにも気付かされます。感謝の心も浮かんできます。日博上人のお言葉は、苦悩する多くの人々と対峙(たいじ)してご奉公される中で実感から導き出された確信であり、身命を賭(と)して貫かれた信念であり、後代の私たちに範(はん)を示された佛立信仰肝心の御法門でもあります。
日博上人は最晩年の闘病中に、「来世も病弱で構わない。貧乏な家庭に生まれてきたい」と家族に仰せになったとお聞きしています。普通に考えれば、「来世は健康で生まれたい、少しでも裕福な家に生まれてきたい」と願う所です。驚いて家族が理由を尋ねますと、「病気であればこそご信心の本当の有難さが分かった。人の痛みも分かった。裕福ではご信心しようと思わないかもしれないから」とお答えになられたそうです。
誰もが幸福になりたいと思っております。誰もが苦しみから抜け出す術を探しております。苦しみがあれば、一刻も早く逃れたい、もっと豊かに、幸福に、価値ある人生を送りたいと思っております。しかし、実はそこに落とし穴もあり、幸福を求めているつもりでも、思いが強くなり過ぎて心を縛られ、執着心と嫉妬心に苛(さいな)まれ逆に不幸な一生を送っている人もあります。自分の人生にとって本当の幸福は何か、不幸を感じるのは何故か、苦しみの原因は何か。その答えに気付かなければ、永遠に迷い続け、悪循環を続けてしまう凡夫の一生があるだけなのです。
日博上人は、御法の大慈大悲の光が、一人一人が感じる「不幸」や「苦しみ」を通じて三毒強盛の凡夫に届くということを教えられています。突如として降り掛かる不幸な出来事も、御題目にお縋(すが)りする起因と転じることが出来れば、最大の幸福にすることが出来るとお示しなのです。それが佛立信心である、御題目のお力である、と。本当の幸福とは、迷妄する凡夫の眼を開くことに他ならないのです。
先住日爽上人は「今だけ見るな」と常々に仰せでした。目先のことだけで幸不幸を論じ、短い期間で良かった、悪かったと喜怒哀楽を表す愚かな息子への教えでした。本当の幸不幸は、凡夫の考えでは計り知れないものです。
成功者として世の中を闊歩(かっぽ)していた知人が、病室で情けないほどに泣きながら、「おい坊主。死んで何処にいくんだ。死にたくない」と私の手を引っ張って泣いておられる姿が忘れられません。死の恐怖に取り憑かれて、余りに不幸な最期でした。佛立信者の臨終の姿とは全く異なっていて驚愕(きょうがく)しました。
私が社会に出ているときに見てきたブラウン管の向こう側に広がる一見華やかな世界も、普通の社会以上に、愛憎(あいぞう)や嫉妬(しっと)、罠(わな)に満ちた恐ろしい世界です。人も羨(うらや)むほど綺麗な容姿の女性たちが、業界の中で翻弄(ほんろう)されてゆく顛末(てんまつ)を見ると、彼女たちこそ最も不幸ではないか、と感じることがありました。
大きな家に住んでいることも、裕福であることも、そのままその人が幸福であるとは限りません。家は大きいのに家族は小さくなり、便利さは増したのに、時間は足りなくなり、裕福であるがゆえに、争いが増えることもあるのです。
病気の人がそのまま不幸とも言えません。当然ながら、細々と暮らしている方々が不幸とも限りません。逆に、長生きが幸福とは限らないのです。家族に疎(うと)んじられ、死を待たれる苦しみは想像を絶します。智慧があることも、そう思い込んでいることも、幸福に入るでしょうか。自己を過信し、素直になることができなければ、孤独な仙人の如く、単に頑迷(がんめい)の徒となります。
達観(たっかん)することを勧めているわけではありません。人生では、夢を持つことも、夢を追うことも必要不可欠です。目的や目標を設定し、何度も達成感や挫折感を味わうのが人生です。しかし、その人生の中でも、佛立信者こそ「良い時に驕(おご)ることなく、苦しいときにこそ負けることなく」、生きる手本を示すべきだと思うのです。真実の仏教を頂く佛立信者こそ、社会の中で、本当の幸福の在り方を知り、自ら感得し、表現する人でなければならないと思うのです。
煎じ詰めれば、御仏の御眼から御覧になられた真の「幸福」とは、「ご信心が起こること」「ご信心が起きてくること」だと感得することが出来ます。いま生きている諸々の苦悩の中で、来るべき老苦の中で、病苦の中で、死苦の中で、そのことに「気付く」ことこそが真の幸福なのではないでしょうか。苦しみを和らげる方法は、「癒し」をはじめ色々な手法が挙げられるようですが、真に無常の娑婆世界の中で私たちが苦悩から逃れ出て、真の幸福を得るためには、御題目をお唱えするこのご信心の尊さに気付くことしかありません。一歩ご信心に踏み出すことが出来れば、本当の幸福に近づくことが出来るのです。
「最大の不幸を最高の幸福にする」のが、御仏の大慈大悲ですから、その向こう側には、その人やその家族を根本から幸福に導く御仏の真意が隠されているはずなのです。家族の一人一人に本物の「ご信心」が芽生えれば、来るべき苦しみも苦しみではなくなり、家族の絆(きずな)を深め、真の愛情に目覚め、感謝と思いやりの生き方が出来るようになるはずなのです。それこそ一生の宝物、この一生に於ける至上の思い出となるはずです。
お祖師さまは、苦悩するご信者を常に慈悲深く励まされ、不幸の中にある方々に、苦しみを転じるご信心の尊さをお示しです。
「わざはひも転じて幸となるべし。あひかまへて御信心を出し、此の御本尊に祈念せしめ給へ」とは、思わぬ災禍も必ず幸福へと転じて下さる法華経本門のご信心、迷わず信行に励む大切さを教えて下さる肝に銘ずるべき祖訓です。苦しいこと、辛いことに当たっても、御法さまを信じ、狼狽(うろた)えずにご信心に励み、御利益の春を楽しみにするのが佛立信心なのです。
菩薩の声が聞こえる妙深寺では、苦難や困難に負けず、乗り越えられた方々が沢山おります。その方々を私たちはお手本にしなければなりません。共に喜び合える妙深寺でありますように、お互いに誰かの困難の中で同悲同苦をし、現証の御利益を感得させて頂いて、共に「真の幸福」を手にしたいのです。
菩薩の誓いは幸福の誓いなのです。
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