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  正法を正信すべし

2003/05



 滑稽極まりないキャラバン隊は、どこに行くというのでしょうか。まさに、邪教邪説が溢れる末法の世相です。彼等に限らず、妄想を抱く人や、社会性を失い孤立する人や団体は数え切れません。過剰な報道は極端な行動を誘発します。私たちは、いたずらに恐れることも貴重な時間をテレビ等で費やすこともなく、ただ白い装束に身を包む集団から、人間の心の弱さと愚かさ、迷信邪教の害を学ばなければならないと感じます。
 人間であれば誰もが、何が善で何が悪か、何をすることが正しいことか、私たちの目的とは何なのか、といった疑問を抱くものです。生命は何処から来て、何処に行くのか、どう生きるべきなのだろうという疑問です。そして、安全で確かな寄港地、確かな論拠、指針を見出したいと願うものです。
 しかし、多くの人は今日の社会にそんなものは存在しないと感じています。抹香臭い仏教は古典や道徳の一つ、西欧の宗教は神話の一つと既存の宗教に答えを求められずにいます。科学や哲学の枝葉末節にも辟易した現代人は、疑問を抱えながらフワフワと宙に浮き、迷っているのが現実なのです。
 誰もが持つ疑問や願い、自己を守り肯定する心や強迫観念、占いなど神秘に魅せられる心が、危険な宗教の門を叩かせます。人生を狂わす危険な宗教は次々に生まれているのです。社会や人生の矛盾、孤独感と無力感の中で答えを探し、狂った教祖の教えを仰ぐしか道の無い人が多くいるということです。哀れな犠牲者は、純粋で無垢で、欲が強く、臆病な人々なのです。
 世の信仰には、
 正法正信(正本尊・正信修行)
 正法迷信(正本尊・迷邪行法)
 邪法正信(誤本尊・正修行)
 邪法迷信(誤本尊・迷邪行法)
の四種があります。
 正しい法を本尊として、正しく修行をしていなければなりません。「邪法正信」では、いくら「正信」であろうと、幸福な人生が訪れることはありません。逆に奈落の底へ堕ちる不幸が待っています。
 信仰とは、心の柱、家族の柱、人生の様々な設問に答えを導いてくれる大切なものです。全世界の宗教を問わず、統一教会やオウム真理教などの信仰者ですら、純粋で尊敬すべき探求者がおります。しかし、信仰する「法」の正邪によって、自身も傷つき他の人をも苦しめることになるのです。
 お祖師さまは信ずべき法の正邪を導くための定規として、三段階の「設問」を示されました。
 道理証(どうりしょう)
 文 証(もんしょう)
 現 証(げんしょう)
という「三証」が具わらなければ「正法」ではない、信仰の対象とはなり得ないと教えられました。
「御本尊」は、信仰の対象です。「本尊」とは「根本尊崇」と書き、「宇宙法界の中で最も尊く崇めるべきもの」という意味です。ですから、本来この世に数多く存在するというものではありません。
 動物である「犬」や「キツネ」、お岩さんや生殖器を祀って本尊にしていたり、コロコロ変えている宗教などは、どれだけ尊い信仰心があっても迷いを深めるだけです。「道理証」とは、道理に照らして信ずるに値しないものを退けます。
 続く「文証」では、信仰の根拠となる仏典やバイブル等に照らし、矛盾無く教義が語られるか否かで判釈をします。文証は信仰の根拠を明かすものです。この設問で、実に驚く数の宗教に信仰的根拠が無いと分かります。叙事詩や儒教や神道の諸説の切り張り、諸教典の付け足し、教義のつまみ食い等、文証のテーブルにも上がりません。漫画のような教義を本で発表している教祖や宗教団体もありますが、それらは精神のバランスを欠いた論理と同じで、矛盾に満ちている為に退けます。このようにすると残りは僅かとなるのです。
 最後に「現証」という設問です。これは、現に証明される信仰的な現象のことです。論理だけで人は救えず、道理証と文証があっても、現実に誰も救われなければ死んだ信仰です。教えの通りに実践して現前に信仰的現象を感得することができなければなりません。逆に、現前に超常的な現象があっても、道理証・文証のないものは邪法か魔の信仰であると退けます。魔の利益は後で苦しむもので、悪人に助けられた、ヤミ金融からお金を借りたのと同じように、後が悪く、返って不幸を招き寄せます。
 本門佛立宗は、三証具足であり、「正法正信」の大切さを説く宗義です。「佛立宗は現世利益を説く」と、近所の厄よけ神社や水子供養のお寺と同様に考えている人等は浅はかです。道理・文証があり、因果の道理の上で妙不可思議の「現証の御利益」を頂く宗義です。
 私たちは弱いですから、願いや疑問が高じると悪魔の力でも良いから貸してもらいたくもなります。未知への興味も尽きず、そうした心が高じて悪しき門に入るのです。
 時折「超能力」と呼ばれる普通以上に物の見える人もおります。そうした能力も自他の迷いを増すために御仏は戒められております。御仏には「神通第一」と呼ばれるお弟子がいましたが、御仏は二つの理由を挙げて、通力を使わずに生きる道を説かれました。
 一つは、通力を使うことは因果の道理から外れ、魔の利益と同様で、後に心身に過悪をもたらすということ。通力によって幸福にはなれない、幸福になったと感じても長くは続かないと示されました。
 もう一つは、もし動物の霊性が働いて通力が強いとしても、人間の性を考えれば、必ず欲望やエゴ、邪な智慧が働いて、終いには自身も迷い、周囲の人まで巻き込んで苦しむ結果になると説かれました。教祖を自称する人の多くは、最初は人を惹きつけ、最後には行き場を失い自壊するものなのです。
 白装束の集団は、誰かのせいにして山林に逃げ込んでおります。親が悪い、家族が悪い、あいつが悪い、国が悪い、電波が悪い、と自分の責任を放棄し、動物と同じ怯える心と命を守る心だけ強く、生老病死も因果も受け入れません。
 お祖師さまは如説修行抄で、「山や林に閉じ籠もって修行することは法華経の教えに外れ、妖怪に取り憑かれたようなものだ」と説かれました。本門佛立宗の宗義では、逃げることや誰かのせいにして生きることは許されません。良きも悪しくも因果の中心にいるのは自分自身だからです。佛立の菩薩は、迷い苦しむ人々を、三証具足の真実の信仰の門へと誘うのです。それこそ菩薩の責任です。


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