TOP > 佛立の眼 - HBS eyes > 法を聞かねば







  法を聞かねば

2002/10



 ご信心で特に大切と教えて頂くのが「御講」です。
 御講は、御仏の立てられた真実の教えの筋を守り、伝え、広めてゆく場であり、集いであり、修行の基軸でもあります。もし佛立宗の信心修行から御講がなくなれば、それはもう佛立宗でありません。それほど大切なご奉公であります。
 ですから、本門佛立宗のお寺は世間のお寺とは大きく異なります。つまり「御講」という御仏の教えを説き、自分のためにも、人の為にもなる「信心育成の場=御講」の「集合体」が本門佛立宗のお寺であることを忘れてはならないと教えて頂くのです。
 さらに御講が大切であることを象徴する教えがあります。
 私たちは本門佛立宗の総導師を「御講有」とお呼び申し上げます。その意味は「講を所有される方」というもので、全世界各地で奉修されるあらゆる御講を所有される総導師なのであります。
 その奥に、お祖師さまがおられ、全世界のどこで勤まる御講席も、突き詰めればお祖師さまが総導師で、そのお膝元から御講有がお出ましになられ、私たち教務はそのお使い、代身、代講を勤めさせていただいている、ということです。
 どのように小さな御講席でも、お祖師さま、開導聖人、御講有の御庇護のもとに奉修されるこの上なく尊いご奉公が「御講」なのであります。
開導聖人の御教歌に、
 講中と成て御講に参らねば
    講の外なる人にかはらず
と御座います。
「講中」とは「佛立宗のご信者」という意味で、この御教歌では、せっかくご信者となっても御講に参詣せず、御法門を聴聞する機会や姿勢がなければ、信心を知らぬ世間の人と何ら変わらなくなる、と戒められているのです。
 当たり前のことですが、お寺に所属しているだけで御仏の説かれた功徳が頂けるのではありません。自ら教えを求める気持ちや行動があってはじめて、修行の第一歩を踏み出したことになります。
 学校に入学しても、在籍しているだけで授業にも出ることもなく、先生の教えを聞く機会もなく勉強もしなければ進級はできませんし、卒業することも出来ません。仕事でも趣味でも、様々に研修すべきことがあるものです。それをしなければ出世することも、習熟することもありません。
 同じように、生徒ならぬ信徒として御仏の大切な教えを頂こうとするのが私たちですから、御法門を率先して聞き、学ぶことが必要不可欠なのであります。
 貪欲、瞋恚、愚癡という三毒に冒され、正しい道を見失いがちな凡夫が私たちです。良いことでも悪いことでも、情報が溢れている現代社会では、正確な判断をすることが難しい時代なのです。
 テレビでは「癌に効く」「健康に良い」「血液をサラサラにする」という食品やサプリメントが次から次へと紹介されています。健康や食品に関する様々な学説を次々に紹介することで視聴率は爆発的に上がります。そしてそこで紹介された食品や商品は、次の日には売り切れとなるのです。
 いま、番組の放送内容から商品を追い求める視聴者の行動特性を予想し、テレビ局主導のビジネスモデルが生まれています。番組と連動して商品の仕入れや在庫管理を操作して、毎週数十億円が動く巨大なビジネスになっています。
 アガリクスからブロッコリー、黒酢から唐辛子、オリーブオイルからビール酵母、今はアミノ酸とマイナスイオンが大きなブームとなっていますが、それらも巧妙に組み立てられたビジネスモデルの一つと考えると淋しくなります。結局、過食せず様々なものをバランス良く摂取するということだけが真実のようにも感じます。
 書店にも様々なジャンルの本が溢れています。特に最近は疲れたビジネスマンに向けた書物が増えており、ヒーリングやストレスの解消方法や人生観の転換を訴える本が売れているようです。しかし、これらも読んでみると内容は薄弱で、長い眼で見れば人生に好影響を与えているのか疑問です。一瞬の気分転換、ちょっとした刺激や一時の知的興奮を与えるてくれるだけの効果しかないように思うのです。それも読書の楽しみなのですが、書店に溢れる本を見れば、何か空しさが残ります。
 同じように、街角にマッサージルームが次々に出店しています。これもブームのようで「てもみん」など簡単な手や足裏のマッサージで一瞬のリラックスを求める人が急増している表れです。これらも、末法が進み、その娑婆世界で生活する凡夫の行動特性を読んだ最新のビジネスなのかもしれません。追い求めて、走り続けて、疲れて、休んでを繰り返しながら、大切な何かを置き去りにしてしまう凡夫。振り出しには戻らない貴重な一生ですから、「凡夫の行動特性」にだけ終始して、後悔をすることのないようにすべきなのです。
 心の中に正しい定規を持たない人は、哀れな人生を歩むものです。
 信者といえども末法の荒波の中で生活している私たち。気まぐれな人間であることに変わりはありませんから、御法門を求める心を持ち続けていなければ世間の人と同様迷える凡夫のままです。 
 先祖代々佛立宗の信者であるという方や自分で入信したという方、結婚した相手の家が佛立宗の信徒だった方など、そのご縁には違いがありますが、ご縁の内容や信歴の長短にかかわらず、御講に参詣し御法門聴聞を心掛けない信者では真実の佛立信者とはならないとお示しなのです。
 所属しているようで所属していない人と同じ、信者であって信者ではないという、私たちの思わぬ落とし穴を教えて頂きます。
 佛立信者でありながら、物事に迷い、場当たり的に苦しみもがいていては仕方がありません。世間の人と同じように邪な智慧ばかりを働かせて立ち回り、人のうわさ話が大好きで、無常も知らず、他の人を思いやることもせず、気まぐれなままでは仕方がないのです。
 私たちは小さな善を選んで大きな善を失う、小さな善を尊び大きな善を疎んじる悪癖があります。これも、御仏の正しい教えを聴聞せず、継続して御講に参詣せず、求めていないために生まれます。そういう名ばかりの信者とならぬように、「法を聞く」「法を聞かなければならない」ということを心に刻まなければなりません。
 私たちのご信心には、胸に手を当ててみれば色々な改良点が思い浮かびますが、その第一の改良点として「御講参詣」「御法門聴聞」への姿勢を省みてみましょう。
 偽物のご信者とならないように御講に参詣させて頂きましょう。もし御講に参詣させて頂けているなら古法華にならず素直に御法門を聴聞しているかを省みましょう。
 そして、自分の周りを見渡して、自分のご主人や家族、部内班内のご信者で様々な理由で御講参詣の出来ない方々にお声を掛けて誘い合い、聴聞させて頂いた御法門を伝えられるようにしましょう。
 御講は、第一のご奉公であり、御講参詣こそが御利益を頂く道、寂光参拝の為の第一歩であることを忘れてはなりません。
 迷える凡夫は「法を聞かぬ人」「法を求めぬ人」なのです。


Copyrights(C) GITEN-Workshop all rights reserved.