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  家族の佛立魂

2002/03



 平成七年秋、「佛立魂」という本を出版いたしました。
 この本は、平成五年春に起きた先住の御怪我、起死回生の御利益を通して感じたことを思いつくままに綴り、母や姉をはじめ、多くの方々に執筆をお願いしてまとめたものでした。
 先住日爽上人がご遷化になられ、早くも御三回忌の声を聞くようになった今、もう一度この本を読み返して、先住の人生と私の人生の接点、数え切れないほどのご教導や深い愛情に思いを馳せ、家族、親子にとっての「佛立魂」を考えてみたいのであります。
 私は三十年余りで父親と別れることになりました。
 もっと若くしてご両親を亡くされた方もあると思い失礼とは存じますが、私にとって三十年という月日は余りに短く、僅かな時間であったと感じております。
 振り返れば、幼少の頃から今に至るまで、先住のような父を持ち、育てて頂けたことを心から感謝し、誇りに思うのであります。
 つくづく私のようなバカな息子を持ちながら、時には叱り、時には我慢をし、心と身体を尽くし、命を削りながら、かけがえのない大切なことを教えてくれました。
「お看経が足りない」と怒られるかもしれませんが、実は余りにも父親が好きだった為に、未だ心の整理が付かず、時々無性に淋しくなったり、泣き出したくなったり、逃げ出したくなったりすることがあります。
 ご遷化の朝の深い悲しみの残像は、泣きながら通過した病院近くの交差点にもこびりつき、今でも車でその交差点にさしかかると、何処ともしれない心の底から黒い影が浮かび上がってきます。
 私は、父親が大好きでした。
 余りにご奉公が忙しく、子供の頃の我が家を思い浮かべても父親と一緒に過ごした記憶など無いに等しいのですが、大きく、そして深い愛情で見守ってくれる「父親」という存在は、切っても切り離すことの出来ない私の心と体の一部のように感じておりました。
 その偉大な存在が失われた時の心の傷は、私の平衡感覚を狂わせ、何かを深くえぐり取られたような気持ちにさせるのでした。
 しかし、悲しみに暮れることを日々の常としているだけでは父は喜ばない、僅か三十数年の間ではあったけれども、父の口や身体を通じて教えられたことを振り返り、自分の人生に活かして、精一杯に生きてゆくことを望んでおられるはずだと確信するのであります。
 色々なことを教えて頂いたとはいえ、私は父から人生を生きる為の細かなテクニックを教わった事はありませんでした。
 むしろ、テクニックを学んで、テクニックを駆使しようとすると、怒られたり、注意をされたりした記憶があるのです。
 人間として生きるために本当に必要なことはもっと違う所にある、もっと大きなものであると教えて下さっていたようです。
 政治家の座右の銘にされ、価値が落ちてしまった感がありますが、父は「百術は一誠に如かず」という言葉の意味を学ぶべきであると考えておられたのだと思います。
 人の心を動かすのは権謀術数や手練手管、テクニックではなく、結局、誠実さや真心であるのだとその生き方でも示されていました。
 実のところ、私はそういう話をする父をバカにしていた心がありました。
 学歴も必要だ。手に職を付けなければ。そうは言ってもズルくて、賢くて、強い者が勝つ世の中だ。親父は少々甘いのだ、と。
 しかし、今更ながら父が教えて下さっていた意味が分かりかけてきているのであります。
 自分が嘘をつけば人の言葉も嘘のように思えてくるものですし、不誠実な人間関係は砂の上の城のように脆く、結局は孤独な人生を送ることになり、誰の信頼も得られず、何も残りはしません。
 自らテクニックに固執した人生を歩み、テクニックだけを子供に伝えて満足している親であれば、、人間として生きるために一番大切なことを教えてあげていないことになってしまいます。
 結局、その子に不幸な人生を歩ませることになってしまいます。
 父は、ご宝前のお力をお借りし、人生の中で最も大切な心である「一誠」を、「佛立信心」「佛立魂」として、平成五年の春、妙深寺の境内地に於いて強烈に私や全ての子供たちに教えて下さいました。
 否応もなく、好きも嫌いもなく、欲も深くわがままで、三毒強盛といわれる私たちが一心にご宝前に向かい、お題目をお唱えし、目の当たりに現証のご利益を見させて頂けたことこそ、父から子、先住から私たちへ伝えられた最も大切な教えであり、永遠に歴史に刻まれるべき事だったと考えます。
 あの大事故の後、悪夢のような悲しさと重苦しい病室は忘れられませんし、その後の喜びも忘れることは出来ません。
 そして、ご遷化の前夜、最後に息子である私に残してくれた言葉も忘れることは出来ません。
 それは、最期まで生きるためのテクニックや処世術ではなく、「信心を進め励ます」ただ一誠を込めた言葉でありました。
 全身で息をされ、苦しいはずの最期臨終の一時間前にまで、若き佛立法子となる清康を呼び寄せ、震える手で剃髪をされることなど、誰に想像出来るでしょうか。
 私は、自分の臨終の時を想像し、父と同じように出来るであろうかと不安で仕方がなくなります。
 その場しのぎの職業坊主、他人に説き我が身に説けない説教屋、処世術を説くだけの軽薄な人間の多い末法という世の中で、身体を張り、命の尽きるまで「佛立魂」を指し示し、子に与え弟子に与え、多くの人に与えようと努める所に、本物と偽物の違いが出てくるように感じるのであります。
 遙か七五〇年前、旭に向かって立教開宗された高祖日蓮大士、私たちのお祖師さまは、その佛立魂を授けて下さった本当の意味での「親」と頂くのであります。
 お祖師さまこそ、人々が目先の物事や欲に囚われ、正しい生き方から外れ、迷い苦しむことの無いように、「日蓮は日本国の諸人にしたしき父母也」と仰せの如く、子供に大切な「一誠」、「佛立魂」を授けようと御一生を捧げられたと感得するのであります。
 それは、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経の正法に対して信心を発起し、お唱えし、菩薩行に励む生き方が出来るようになることです。
「信心」は、自然と心の中に涌き出るものではありません。
 しかし、「信心」とは「真の心」であり、人生の中で最も必要な心であり、人々の心に芽生えさせるべき「心」なのであります。
 この一事を教えて頂けたことこそ、永遠に感謝して止まない尊く、有難いことなのであります。
 親が子に与え、子供が学ぶべきことは様々あるでしょうけれども、その中でも最も尊いものが「信心」「佛立魂」であると確信します。
 激動の現代社会、不安定で混沌とした社会で生活をする私たちだからこそ、お祖師さま、開導聖人、先住日爽上人からの教えを忘れず、何が自分の人生にとって大事であるか、何を教えて下されたのか、何を子供に伝えてゆくべきであるのかを学ぶべきです。
 祖父母から両親へ、親から子供たちへ、子供たちから未来へ。
 伝えてゆくものは、テクニックや処世術ではなく、人間にとって決して欠かすことの出来ない「心」、正しい御法に対する素直な心、「佛立魂」であって欲しいと祈念いたします。
 それは、必ずその人を幸福にし、その人の人生を照らし、その人の魂を救うことになるのであります。


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