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  人事を尽くして現証を待つ

2002/02



 題名は忘れてしまいましたが、小学生の頃に読んだ漫画に今でも忘れられない場面があります。
 炎天下の甲子園、緊張感溢れる決勝戦のグランドで、2アウト満塁のピンチに立ったピッチャーが、靴の紐を締め直そうとします。
 マウンドの主人公は、シューズの上に掛かる皮の裏側にマジックで書かれた「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を目にするのでした。
「人事を尽くす」とは、人間として可能な限りの努力をし尽くす大切さを指し示し、「天命を待つ」とはその努力の上で人間の力では及ばない事象・結果については「天に任せよう」という覚悟・意識で物事に処す事の大切さを教えております。。
 彼は、その文字を見つめながら今までのことを振り返ります。
 辛く苦しい練習をしてきた日々、仲間との固い友情や様々な葛藤を思い返し、後悔の残らないベストを尽くしたプレーを心に誓って、勝負の行方を天に任せると覚悟を決めて立ち上がるのであります。
 私は、このシーンを思い出すたびに、社会生活と佛立信心を結びつける様々なヒントについて考えさせられます。
 積み重ねてきた練習と努力の中でのみ、プレッシャーに負けることのない「自信」が生まれます。
 逆に、社会生活でも、会社でも、学校生活でもスポーツでも、試されている時、勝負しなければならない状況、成功しなければならない時に、努力を惜しんだ、練習が足りなかったという人は「自信」を喪失しプレッシャーに揺らぎ、「不安」に陥るものであります。
 この「自信」を育むための努力や鍛錬がなければ、苛酷な社会の中で前向きに人生を歩み、待ち受ける様々なハードルに対処してゆくことは出来ません。
 また、その「自信」も厳しさを忘れ、曖昧で甘い自分への「過信」となれば、上手くゆくことも上手くゆかず、他人のせいにしたり、怒ったり、嫉妬したり、失敗して絶望したりすることにもなりかねないのであります。
 更に、まだ自分で出来ることがあるにも関わらず「後は野となれ山となれ」ということでは、辛抱が足りない、詰めが甘い、中途半端で無責任なことにもなり、成功や達成には程遠くなります。
「自力本意」でもなく、「他力本願」でもなく、バランスの取れた取り組み方や、物事に対する姿勢が保てれば、後悔することも、諦めることもなくなるはずです。
 人間が今までの努力を力に変えようとする時、必ず「信」が必要となります。
 それは、私たち本門佛立の信者にとっては「天命」という曖昧な「何か(サムシンググレート)」から貰う気まぐれな「運命」ではなく、「運」や「不運」でもなく、三証具足のご信心、上行所伝本因下種の御題目への確固たる「信」でなければなりません。
 複雑に絡まった因果の法の根本に存在する御題目、果報(罪障や功徳)の異なる私たち一人一人と結びついて離れないお祖師さまに対する「信」から生まれる功徳は、暖かな「現証の御利益」として私たちを包み、降り注ぐのです。
 ですから、安易に「運が良い」と喜んだり、「不運だ!」と嘆いたりするのではなく、私たち佛立信者は精一杯の努力の中で、現証の御利益を頂戴できるように、社会や家庭生活の中で「人事を尽くして現証を待つ」精神が大事であると考えるのであります。
 人は、「信じる」という心から「希望」を生み出し、「疑う」という心から「絶望」を導き出すと云われております。
 自分を信じ、自分の努力を信じ、可能性を信じ、未来や誰かを信じることから「希望」が生まれます。
 逆に、自分を疑い、他人を疑い、未来を疑う心から絶望という「望みの絶えた」恐ろしい状況が生まれてきます。
私たちは、この「希望」を生み出す「信じる」ということについて常々その大切さを教えて頂いているのであります。
 また、信じる心を行いにして、お参詣をさせて頂く、御法門を聴聞させて頂く、菩薩行を心掛けお教化をさせて頂こうと励む所に、功徳が生まれ、現証の御利益が頂戴できると教えて頂くのであります。
 ご信心を忘れず、社会生活、家庭生活の中で努力を惜しまなければ、「希望」となり、力強い支えとなり、現実にその証として御利益を頂戴することが出来るのですから、これほど有難いことはありません。
 時に、この現代社会では努力が報われないことがあります。
 また、実力があるのに認められない、成果が上がらない、成功出来ないということが多くあるものです。
 私の友人の中でも会社を経営している者、会社や研究室で働く者、単身海外で成功を目指している者がおります。
 多くは学生時代からの友人ですので、一緒に競技に参加する為に全国を廻ってレース活動をしておりました。
 競技というのは常日頃の練習と努力の成果が毎回如実に試されます。
 私たちは、レースの度に極度の緊張を覚えながら、真剣にそして楽しみながら、数え切れない多くのことを学びました。
 それは、積み重ねられた努力と練習がなければ試される瞬間に不安になり実力が出せないということ、実力や能力以外の所にある「何か」を味方にしなければ勝負に勝ち、危険を回避することは出来ないということでした。
 現在、それぞれ競技はしておりませんが、社会生活の中で努力を惜しまぬよう、懸命に生きております。
 私は、そんな彼らを尊敬し、友人として心から誇りに思っています。
 昨年末、あるアパレル会社を経営している友人が、私に「相談がある」と電話が掛かって参りました。
 彼は、人間性に富み、人からも好かれ、着眼点や発想、企画力、営業能力、事業の経営にも優れており、小さなプレハブの会社から国内のフィットネスウェアの販売シェア二十六%を占める大きな企業へと成長させた人物であります。
 その彼が平成十四年を迎えるに当たり、「例年明治神宮で商売繁盛の札を貰ってきたが、大病院の待合室のようで有難いとも思えないし、御利益があるとも思えない。今年は何とかお前のお寺でやってもらいたい」という相談でありました。
 私は、大親友のことですので、何とか力になりたいと思いましたが、本門佛立宗のお寺として、祈祷は行わないこと、商売繁盛の因果を考えれば社長はご信心をし、御本尊を護持し、功徳を積む行いに努めなければならない、と伝えさせて頂きました。
 一月八日、社長である本人をはじめ、株主や役員、社員と共に妙深寺に訪れ、信仰師の導師により一座の御看経をさせて頂きました。
 例年のコンビニのような明治神宮とは異なり、当本堂で一時間近くも御題目を唱えた彼等を心配をしておりましたが、後で聞いてみると、逆に非常に感激してくれておりました。
 信仰師からの法話を聴聞し、社員一同努力を惜しまず仕事に励むと共に、信仰を深くして功徳を積み、人事を尽くして現証のご利益を頂戴し、混迷の日本経済にあっても彼等の事業が発展することを祈念しています。
 佛立開導日扇聖人は御指南に、
「人は一運、自力は千石船なれば信力の功は追手也」
とお示しで御座います。
「人は一運と云い、ひとたび開運すれば幸福の扉は開かれると云う。但し、千石船であっても追い風がなければ進まないであろう。信行の功徳こそ、努力を活かす追手であるのである」
 お祖師さまが四條金吾様に宛てられたお手紙には、
「夫れ、運きはまりぬれば兵法もいらず。果報尽きぬれば所従も従わず。所詮、運も残り、果報もひかゆる故なり」
と御妙判下されており、
「運の尽きる時は、如何に巧みな兵法も役に立たず、果報が無くなる時には家来も従ってこない。そうであれば、貴方が今日あるのは未だに福因が残り、果報も尽きていないからでなのである」
とお諭し下されております。
 私たち佛立信者は、仕事や学業に励むにしても、スポーツをし、試験を受けるにしても、常日頃から精一杯努力をすることは勿論、罪障を消滅し功徳を積み、果報を増大させる信行の大事を忘れず、現証の御利益を頂くことが出来るように、「人事を尽くして現証を待つ」佛立精神で物事に対処すべきであります。
 そのようにさせて頂けば、また必ずや御利益を頂く尊いご信心が本門佛立宗のご信心であります。
 今、報恩ご奉公の真っ只中にあって、佛立信心こそ全ての人にとって不可欠と確信し、混迷する社会情勢の中で一人でも多くの人にこのご信心を伝えてゆこうと情熱を奮い立たせ、佛立信徒たる自信と菩薩たる誇りを持って世に処すことが大事であると考えるのであります。


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